2026年6月18日木曜日

読書、AI

 <適菜收 『AIは人間を殺さない、飼い殺す』(ベスト新書、2026年)>:サブタイトルには「全体主義という心地よい檻」とある。個人や社会的集団の権利や利益を、秩序という名の下に特定権力者/集団・国家に従属させて統制することが全体主義の形態であろう。しかし、何も考えずにその統制下で追従的に生きることに満足する人びとがいる。つまり、檻の中で心地よいと感じる人びとである。
 会社勤めをしていたあるとき、私の設計した機械ユニットの組み立て品質に疑問を抱いて製造技術者に確認したことがあった。その技術者(と称される)担当者の返答が、冶具で組み立てているから大丈夫ですというものだった。その目の前にある冶具の精度を尋ねると応えることができなかった。要は冶具という言葉に盲目的に従属しているだけで、それは例えて言えば、自分で判断できずに、AIで判断しているから大丈夫、あの人が言ってたからOKと主張しているようなものである。
 先日Geminiと初めて対話(?)した。内容はある2箇所の金属鉱山に関する共通要素と人的交流に関することで、それは私が詳しく知っていることでもあったし、新しい知識や視点を得られるかもしれないという安易な気持ちであった。
 Geminiは紳士的に丁寧に応じてくれ、地質学的領域については詳細に回答してくれた。しかし、一部には断定することの裏付け(出典)が不明で納得のいくものではなかった(①)。しかも別の箇所では間違いのある箇所にも気付いた(②)。①については気になったので自分で出典を探してみたらある大学アーカイブに述べられていたことと同一で、そこにも出典は明示されていなかった。②については間違いを指摘したところ、その誤判断してしまったことの背景の説明と謝罪の文章を返してくれた。・・・丁寧な文章と紳士的な応答で、欠点のない人格者と会話しているようでもあり、不思議な、ある意味気持ちが落ち着かない感情を抱いた。
 自分のものではない文章を読むとき、そこには必然的に解釈というフィルターを通しているし、共感するとか拒否するとか、或は右から左に流してしまうなど、自分なりの判断を下している。バカな人はおそらくその人の薄っぺらな感覚と共鳴することだけを受け入れているのだろう。
 今日(6/18)の朝日新聞「社会季評」の「読書離れ本 売れる時代」の記事が一つの指摘をしてくれている(東畑開人氏)。すなわち、「読む人の心は本の中に響くもうひとつの心と親密な語らいをしている」。「内的対話をする可能にする」「心」は「社会から離れ、一人で本を読む時間と空間を保護してくれる心だ」と。読書とは「社会からいったん離れたところでなされる個人的な営みであった」。ならば、今社会に一般化している「読書離れ」とは、「個人的なるもの全般と、そしてそれを守ると力全般が危機に瀕している兆候でもあるのではないか」。「読書離れ」を「AI」に置き換えると、本書で看破する「人間を飼い殺す」AIと繋がる。

2026年6月11日木曜日

病院2箇所へ、ルポ1冊

 6/8,午前中はかかり付け医の紹介状を持って市立医療センター循環器内科へ行き、担当医と1年ぶりに会って受診。紹介状の内容確認と診察。心エコーと診断の予約を入れる。日頃の注意することはと改めて尋ねると血圧ですねといつもの応答。娘と同年代とおぼしきこの女医さんの前に座ると何か娘に注意されているような不思議な感じがする。かといってむさ苦しい(かもしれない)他の男性の医者には代わりたくない。
 同日、続けて午後には膝の痛みで近所の整形外科医院に行く。ここは踵骨棘診察以来の3年振りで、今回は膝の骨棘。体質的に骨極が出来易いのであろう、コレステロールが高めでしょうと言われ、骨棘はそういう人に多いと言われ得心する。以前繰り返した左肩の痛みはカルシウムがたまる所為であったし。そういう体質なのであろう。・・不思議なことに翌日には痛みが殆ど消えていた。痛み止めと消炎テープが常備できることが安心に繋がる。

 <井上理津子 『さいごの色街 飛田』(新潮文庫、2015年/初刊2011年)>:2000~2011年に亙って売春街飛田を取材し、歴史とその街に生きる人びとを活写する。おかみも女の子も呼び込みのおばちゃんも、飲み屋の夫婦も、その街に至るまでの生い立ちや現在(当時)の生活が生々しい。そして自分はというとその(ような)地に近づいたことはないし近づくことは今後もない。

2026年6月6日土曜日

膝が痛い、ヘッドホンのバランス化、飯嶋さんの小説

 6月1日、膝が痛い。普通に歩いている分には何ともないが階段の上り下りに痛みがある。随分と昔15-6年前に、マラソンやジョギングをしていたとき繰り返していた痛みに似たような症状である。
 翌日は痛みが酷くなり、夜中になってからは自室の椅子に腰を下ろすのにもかなり痛く、階段の上り下り-特に下りる時には痛みを強く感じる。ベッドに入っているときは安静状態になるので、朝起きたときは痛みがなくなっていた。しかし、やはり階段で痛みを感じ始める。
 消炎シップを膝に貼り、昔使用したことがあるZAMSTのサポーターを装着する。そうすると楽にはなる。そういう状態が今日6日まで続いている。随分と良くなったが少し違和感もあるのでまだ暫くはウォーキングマシンに乗るのは止め、サポーターは装着し続けよう。

 ASHIDAVOX ST-31のヘッドホンを改造し、3.5mmシングルエンドのプラグを4.4mmバランスプラグに変更した。結果的には改造は上手くいったが、数ミリの細いところへの半田付けに苦労した。1時間も要せずに終わると思っていたが2時間強の時間を費やしてしまった。極間ショートの有無を確認してはいるが、最初の音出しではちょいとビビった。結果OKで、音質はグレードアップした(ような気がする)。

 <飯嶋和一 『虚空蔵の峯』(小学館、2026年)>:徳川家重・田沼意次の宝暦年間に生じた郡上農民の駕籠訴から物語は始る。公事宿主人/半七を中心として郡上における悪政・弾圧、農民の苦しみと農民の真摯な人柄、幕府法廷での奉行による審理の不誠実さが浮かび上がる。
 郡上一揆はwikipediaに概述されており、この小説の背景の理解を助けてくれる。
 時代は異なるけれど江馬修の『山の民』を思い出し、そしていつの時代も変わらない中央政治権力の事なかれ、組織筆頭に立つ人間と私利私欲にまみれる取り巻きたち、権力・権威を利用し我欲を満たそうとする愚か者たち等々、現代の政治屋などがチラチラと頭に浮かんだ。誠実に社会の中で生きている人たちに対して何故にこうも言葉を弄ぶ人が多いのかと憤りを覚える。自分の頭で考えず、どこかで身につけた上辺だけの言葉、話の筋の本質を掴めずに自己保身に向かう人たち。何度も何度も類似体験したことではあるが、今となっては諦観の域に入ることを人生目標とするしかないのであろうか。