2015年8月8日土曜日

不条理、条理

 7月25日の朝日新聞(終末別冊be)に「もう一度見たい日本の戦争映画 人間をもてあそぶ不条理な悲劇」があり、1位から順に『火垂るの墓』・『ビルマの竪琴』・『私は貝になりたい』・『戦場のメリークリスマス』・『ひめゆりの塔』と続く。それぞれ名作であろうことに異論はないが、しかし、悲劇を主軸として描く映画を見るといつも妙に苛立ち、違和感を覚える。また、小説や映画・ドラマの宣伝文において「涙を誘う感動の作品」とか「涙なくしては観られません(読めません)」とかの類をみると興味は大きく削がれてしまう。
 そのような自分にとって「もう一度見たい・・・・」に記載されていた寺脇研さんの下のコメントは得心のいくものであった。

 「『火垂るの墓』も『ビルマの竪琴』も、人間が大いなる運命に翻弄されてしまう不条理な悲劇。しかし私は戦争映画には条里もあるべきだと思っています。つまり、戦争がいかにして始まり、どのように戦われ、終わらせられたのか、その筋道を理詰めで押さえるマクロな視点もあってこそ、未来へつながる作品になる」

 「涙を誘う悲劇の物語」への抗しがたい違和感の理由を寺脇さんは端的に表現している。条理とは「社会における物事の筋道。道理」(大辞林)、道理とは「物事がそうであるべくすじみち。ことわり。わけ。人の行うべき正しい道」(同)。不条理は「理論的思考では筋が見えず、理由が分からないこと」(岩波 哲学・思想事典)。条理・道理を単純化すると、お天道様が正しいか正しくないかを常に見ていて、お天道様に恥ずかしくないように生きるべきであるという大前提を理解することで人間社会は成り立つ、としているのではなかろうか。しかし、そのような前提だけに立てば悲劇は悲劇のままでクローズしてしまい、その先に何があるのか分からない。戦争も犯罪も悪事も非道も人間社会には条理として存在するという思いが、悲劇の深淵にある本質を見つめることになるのではないかと思っている。それは、突き詰めれば自分を見つめることになる。その思いは、「人が皆、肉体的な恐怖を克服し、真摯に自分の心を生きようとしない限りは、社会からいかなる非道も残虐も差別もなくなりはしないだろう」(白石一文)との認識に繋がり、よって、「私たち一人一人に与えられている問いは、ただ一つ、『私とは一体何者であるのか?』という問いだけなのである」(同)への共感に繋がる。