2016年8月5日金曜日

新書一冊

 昨夜は友人たちと酒。ビールから始まって日本酒は控えて1杯だけ、ハイボールは多々。いつものように飲んでいるときは深酔いしていないと自覚するのであるが、翌朝になれば、前夜の深酒を少しは反省する。よく飲んでよく食べた翌日の今日はほぼ絶食とする-家人の誘惑がなければ完全な絶食であった。

 <菅野完 『日本会議の研究』(扶桑社新書、2016年)>:日本会議が出版差し止めを要求したことでも話題になった。あの扶桑社がこのような新書を出すことに意外性を覚えた。
 よく調査しているし、論拠の根拠も提示している。日本会議の歴史をワンセンテンスで言えば、「我々はまだ、長崎大学正門前のゲバルトの延長を、生きている」(293頁)のである。社青同を中心とした左翼学生が活動していた長崎大学で、生長の家信徒たちが正常化に成功し、その後日本会議へと続く(現在の生長の家は日本会議からは離れている)。そしてそこに群がる人、団体、地方議員に国会議員たち。
 今朝(8/5)の朝日新聞3面に「日本会議研究」が載っている。記事でのインフォグラフィックを良く見ると象徴的な内容が表されていることに気づく。それは①日本会議の会長の上に事務総長(椛島)があり、②国会議員懇談会会長(平沼)の上に特別顧問(阿部と麻生)が位置すること。中核が誰なのかが分かる。

 時々思うのだが、「美しい日本の憲法をつくる国民の会」、「美しい日本の私」(川端康成)、などの「美しい」はどの言葉にかかっているのであろうか。美しいのは”日本”なのか、”日本の憲法”(”憲法”)なのか、”・・・国民”あるいは”・・・会”なのか、まぁ通常は美しい”日本”なのであろうが、そうではない「解釈」もできないことはない。何せ、憲法もいろいろと解釈できるようだから。川端の『美しい日本の私』にしても「美しい日本、の私」なのか「美しい、日本の私」なのか。大江健三郎の「あいまいな日本の私」の「あいまい」も“日本”なのか、“日本の私”なのか曖昧な気がするのだが、オレって読解力がないのか。英訳の“Japan, the beautiful, and myself ”や “Japan,the ambiguous,and myself ”の解釈には迷いようがない。

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