2016年8月3日水曜日

本を読んで、漫画を見て

 都知事選劇場が終演となり、舞台を変えて都議会劇場開演となる。石原慎太郎の厚化粧発言の横でエヘラエヘラしていた増田候補が翌日になって、日焼け防止で私も厚化粧との弁明には嗤えた。参議院選挙から都知事選までの連日の報道には辟易となる事も多かった。政治家が口を開いて何かしら喋ると虚しさを覚えることが多い。

 ここ数週間の読書と漫画。忘れまいと身近に置いてある未読の本がなかなか減らない。

 <阿部謹也 『「世間」とは何か』(講談社現代新書、1995年)>:以前友人と飲んでいたとき、位牌や仏壇の存在に関して否定的態度をとったら、その友人は意外にも「世間が許さないだろう」と簡潔な言葉を発し突き放してきた。そのとき、世間一般で言う「世間」をオレはよく理解していないことを自覚した。母親が世間=他人の目を意識し、親戚の評価に気配りをするとき、オレはいつも反感を抱いていたが言い合うのも面倒くさくて聞き流す、あるいは迎合した態度をとっていた。以前ほどではないが今でも他人から「世間」を意識させられることがある。
 戦後になって日本人は悪しき個人主義に洗脳され、美しき日本を忘れてしまった、なんていう人もいる。世間の中に溶け込み、個を出さないことが良き生き方であるかのように暮らしている人もいるし、また、逆に、世間を意識してそこからはみ出していることに人生の快感を得る人もいるようだ。出る杭は打たれるという。しかし、埋没してしまう杭は腐るだけという捉え方もある。埋められて腐るなら打たれても出ている方がいい。
 この本は、「世間」をどのように捉えたか、描写していたのかを万葉の歌、真宗(親鸞)、西鶴、漱石、荷風などから引く。結論的に言ってしまえば、「社会」や「個人」の言葉が出てきた明治以来、万葉時代から使われて長きわたって私達を拘束している「世間」の存在に私たちは感づいてはいるのだが、それを「対象化することが出来ず、そのために」漱石の「坊っちゃんに身を寄せて架空の世界の中で『世間』をやっつける楽しみを味わってきたのである」。分かりやすい。名著と呼ばれるに相応しい。

 <小林よしのり 『民主主義という病い』(幻冬舎、2016年)>:漫画。フランスでの食事の描写は全く邪魔でしかない。
 「選挙権も、被選挙権も、試験を受けて合格した者だけが獲得し、民主制に参加できるようにすべき」とする立場はオレも同じ。「エリートの『寡頭制』」と言ってしまえば角が立つが、少なくとも民主主義礼賛には違和感がある。小林が「あまりに多くの阿呆が国会議員になっていると思わんか?」と嘆くのは当たっているし、マスコミも萎縮しながら、且つバランスを取りながらその阿呆を非難しても何も本質的は変わらない。阿呆な国会議員がなぜ誕生してしまうのかを継続して取上げなければ意味がない。しかし、阿呆な国会議員が自らの阿呆さを正して法を変えることなどありえない。阿呆を正すに阿呆を選ばなければならぬという阿呆なシステム、それが今の民主主義。
 『日本書紀』に記述されていることを史実として捉え、「公民主義」を主張することには賛同しない。

 <浦沢直樹 『BILLY BAT⑲』(講談社、2016年)>:時は2017年。この物語、どのようにエンディングを迎えるのか、興味はそれに尽きる。

 <高野秀行 『未来国家ブータン』(集英社文庫、2016年)>:GNH(Gross National Happiness)と国王の来日で一時話題を集めたブータンは標高の高い山岳の地であると思い込んでいただけに、「標高200メートルの熱帯」地域があるとは意外だった。何年か前にテレビでブータンの映像が流れ、ゆったりとした時間が流れていると感じていた。
 ブータンは伝統文化と西欧文化をブレンドし、先進国のいいとこ取り&悪いところを回避しているという。発展も環境への取り組みにも「継続する」ことを前提に置いており、それを実現している。環境が大事、伝統が大事と先進国はいまになって気付いているが、ブータンは先取りしている。故に、ブータンは、先進国である我々に追いつくことのできない、「未来国家」であると捉えている。
 翻って、日本は明治期に西欧へ追いつこうとし、馴化し、いまになって明治への回帰を声高に叫ぶ一群がいる。明治の何に回帰しようとしているのか、問い続けねばなるない。明治20年を境にして日本の美は変質したと考える人もいるし、「美しい日本」と冠を付けたがる人々もいる。この国は一体どこにベクトルが向いているのだろう。・・・ブータンの「継続する」という姿勢がある種羨ましい。

 <高橋源一郎 『ぼくらの民主主義なんだぜ』(朝日新書、2015年)>:朝日新聞をとっているから「論壇時評」には目を通している。しかし、内容は忘れていることが多い。まとめて再読してみようと思い手に取った。以前から「民主主義」には懐疑的になっていて、最近はより度合いが強まっている。「民主主義」を積極的に否定するのではなく、「民主主義」を礼賛することに「でもさ~っ」という抵抗感があり、あるいは、「民主主義」という言葉で人々の言動を逆に束縛し、本質を見えなくしているんじゃないのっていう思いがある。日本は「民主主義」の国家と言うよりは、「民主制=多数決による取捨選択」の国家と理解するのが的を射ている。そして今の多数決による「民主制」に「民主主義」的運用は成されていないと考えている。

 <雨瀬シオリ 『ALL OUT 5』・『ALL OUT 6』・『ALL OUT 7』(講談社、2014年・2015年・2015年)>:登場人物の区別がつかないのは相変わらずだが、描かれるラグビーは以前より面白く感じられてきた。それはポジションの役割と求められる能力などが具体的に解説され、それに取り組む選手が直向に取り組んでいるからであろう。
 オレは高校時代にスポーツは全くせず、その頃の日記には下宿での勉強内容と時間、試験の成績や順位などを記入していたがことが多い。何かやり残したことがあるのではないかと今でも思うことがある。それは大学入学時、附属高校から大学に進学してきた連中は音楽や文学作品に詳しく、それを羨ましく思えたことと相通じている。大学でも会社でもスポーツに打ち込んだ人たちに羨望を抱いたのも事実。家人もテニスではそこそこのレベルにあって、少しばかり羨ましくもあった。スポーツは素晴らしい、但し、脳みそまで筋肉化させた人は除外。
 閑話休題、ラグビーだが、9月も近づきつつあり、今季の早稲田ラグビーはどうなるか? ため息混じりの観戦となるのか、歓喜で右腕をあげて隣の観客と握手をすることが多くなるのか・・・? 最初の試合は海老名だ。隣接する綾瀬市に住み、海老名の事業所に6年半ほど通っていた。かつての生活の場所を訪れながら成蹊大戦を観戦に行こうかな。

 <長岡弘樹 『赤い刻印』(双葉社、年)>:短編4作。表題作はまぁまぁという感じで、あとは以前ほどには楽しめなかった。伏線をちりばめるのに労多く、ストーリーにやや無理があると感じた。こっちの小説への読み方が変わってきたからかもしれない。

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