2016年8月25日木曜日

新書とミステリーと漫画

 <青木理 『日本会議の正体』(平凡社新書、2016年)>:『日本会議の研究』は文献や史資料に重きを置いて日本会議の原点から現在までの経緯を詳記しているとすれば、この新書はインタビュー取材を多く行っていることで現在の日本会議および政治家との関係をリアルタイムデ語っている。
 「公」に天皇・皇室をおき、伝統や日本の美をそこに集約させ、支える基本は家族にあるというその考えは、何故にそう考えるのかがオレには理解できない。個は家族に含まれ、家族は同一平面上で公と同一化し、その公を包み込むのが天皇、皇室ということのようである。なぜそうなるのかは、『生命の実相』に触れて感銘を受けるということにあるようだ。そしてまた多くの国会議員が日本会議懇談会に加わり、地方議員も類似の行動にある。なぜ群れるのか、集票としての利便性にあるからか、単にお賽銭箱に気持を投げ入れるということなのか、疑問というより何か異次元の心象の如くに思える。
 いろんな考え方、思いはあって当然である。しかし、自分には大宅壮一の皮肉たっぷりの言葉が気持ちいい。大家の言葉を借りれば、谷口雅春は糊口をしのぐ方法として1929年個人雑誌『生長の家』をはじめた。発表したいからあなたの過去などを知らせて欲しいと手紙を出し、返事が来れば感想を書いて送る。それの繰り返しで人を呼び寄せる。軍人と未亡人が一番この手にかかりやすいという。それはそうだろう、軍人は名誉欲が強いから自分の過去やイイ話を載せてもらうと誇らしくなるし、未亡人は孤閨の寂寥を埋める慰めとなるのであろう。雑誌に載れば、知性を飾ることもできる。そうやって事業を拡大し、「戦前から戦中にかけて軍部の戦争遂行を全面的に賛美・協力し、これも勢力拡大の大きな跳躍台とな」り、戦後は現行憲法を嫌悪した。
 何はともあれ、「停滞期において不安になった人びとは、自分たちのアイデンティティーを支えてくれる宗教とナショナリズムに過剰に依拠するようになる。戦前の場合は国体論や天皇崇敬、皇道というものに集約されたわけです」(島薗進244-5頁)。
 『月刊日本』主幹の分析を引用する(246-7頁)。「憲法をめぐる考えひとつとっても、日本会議の内部や周辺には『明治憲法の復元』から『自主憲法の制定』、そして『現行憲法の改正』までいろいろな立場がある。2015年の安保関連法制を解釈改憲で押し切ったことも影響し、憲法改正を支持する世論はむしろ減ってしまったから、現実には憲法改正は相当難しくなっている。いまは必死で押さえつけていますが、改憲がうまくいかないということになれば内部対立が顕在化し、組織が瓦解してしまうことも十分に考えられます」。併せて次第に日本会議中枢の人たちも高齢化しており、いつか舞台を降りる。その時には戦前の記憶も薄らぎ、今のように戦前回帰、憲法改正/自主憲法制定の運動は様態を変えるかもしれない。そうなったとき、憲法への新しい向き合い方がでてくるのかもしれない。
 横道にそれるが、テレビや雑誌で日本を称賛することが増えているが、日本自らが日本に向けて、即ち内部に向けていることに違和感がある。日本的美感覚からいえば、称賛や礼賛は外部から発せられるもので、日本人はそれには面映い笑顔で奥ゆかしく接すると思っているのだが、いまは自ら凄いでしょ、偉いでしょとドヤ顔で身内に自我礼賛している。どこかおかしいのではと思うのだが。

 <早坂吝 『誰も僕を裁けない』(講談社、2016年)>:一晩5万円の援交を仕事にする探偵上木らいちのミステリー。ふざけた雰囲気のある、本格ミステリーとでも言えばよいのか、伏線はあちらこちらにあり、最後は全て明らかにして謎を解く。もっとエロっぽく、もっとバカバカしく、面白おかしいかとも思ったが、意外にマジメにミステリーを組み立てていて、期待外れとでも言おうか、感心したとでも言おうか、毛色の変わった一冊。以前に読んだ2冊ほどには楽しめなかった。

 <手塚治虫 『手塚治虫「日本文化」傑作選』(祥伝社新書、2016年)>:懐かしい絵の中に現代の漫画とは異なる深味というのか、人の世を見つめている姿勢がうかがえる。今の漫画には様々な材料を組み合わせて予定調和的に感動を生み出そうする側面を見てしまうのであるが、手塚治虫の漫画には先ず描こうとする世の中の普遍性があって、そこに材料を当てはめて物語を作っているという気がする。

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