2016年11月9日水曜日

議会の混乱からの教訓!?

 11月8日の朝日新聞に「議会の信頼 富山の混乱を教訓に」の社説。「政務活動費(政活費)の不正で3割の議員が辞職した富山市議会の補欠選挙が、投開票され」、「当選した人の多くは、政活費や議会の改革を訴えた党や無所属の候補だった」が「残念なのは投票率が26・94%と低かったことだ」とし、「政治不信を招いた主因は議会にある。だが不正が長年続いたことは、有権者の関心の低さと無縁ではない。議会が再生を果たすよう、市民は厳しい視線を注ぐ必要がある」と主張する。ここで、ちょこっと抗いたくなった。たかが27%弱の投票率で当選したとする市議会議員と議会制民主主義をまずは嘲け笑い、「市民は厳しい視線を注ぐ」ことへの具体的な手段ぐらいは論じてほしい。たとえそれがラジカルなものであってもだ。市民の厳しい視線を具体的に向けるシステムはまずは選挙であろうし、その選挙での低投票率を嘆くならば選挙に基づく議会制民主主義への疑問を呈するのが先ではないのか、と思うのである。

 つづけて「まずは政活費の不正使用を防ぐ具体策だ」と当たり前のことを書き、政活費の使途を点検する市議会の対策案は、今はやりの「第三者機関を設け」「領収書をインターネットで公開する」ことだと報じる。第三者機関というのは政治の中枢をなす議会システムの機能欠陥を露呈していることであり、自浄作用が不全であることであろう。総じて言えば、市民の厳しい視線を具体的に結びつけることが出来ず、そのようなシステムから生れている議会の機能不全がいまの議会制民主主義である、と感じてしまう。

 「公金は正しく使い、使途はわかりやすく示す。議員に求めたいのはごく常識的な感覚だ」というが、それは使い古された繰り言としか見えないし、「時代が求める改革を怠れば、政治不信が深まるだけ」なのは、時代を超え、形を変え、いつの世にも表出する事象である。くり返される歴史の一面である。そして新聞の論調も型通りのつまらない陳腐な域内に安住している、という感想を抱いてしまう。バカバカしいトランプのように尖がれとは思わないが。

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