2016年10月31日月曜日

久々に本・漫画

 BD作成ソフトの迷走から始まってPC3台の整備、そしてサボっていた写真と動画のDisc作成に1ヶ月以上もかまけてしまい、碌に本を読まなかった。

 <佐藤優・石川知裕 『政治って何だ!?』(ワニブックス|PLUS|新書、2015年)>:サブタイトルは「いまこそ、マックス・ウェーバー『職業としての政治』に学ぶ」であり、ウェーバーの思考を引用してその意味を深耕し解説している。
 政治って何なのかはいまもってよく判っていないが、少なくとも政治家たちあるいは政治システムに期待を抱くことにさほどの価値は見いだせないし、また不祥事とされる事象に落胆することにも大した意味はない。政治ってのはそんなものさと突き放しつつ見つめている。なぜなら、政治の場で繰り広げられる汚さも清潔さも、希望も反省もすべて、人間が生来持ち合わせているものが政治という舞台で表出しているに過ぎない。そう思っている。
 欧州の常識が、①ユダヤ・キリスト教の一神教の伝統、②ギリシャ古典哲学の伝統、③ローマ法の伝統、の3要素にあるとされている。明治以降、日本はその欧州を範としてきたのであるが、日本はローマ法の伝統のみを吸収し、法学の整備としてすすめられた。つまり①と②に日本は視線を向けることはなかった。世界で初めて工学部を創設した東大をモデルとする日本の大学は過度の実学思考であると指摘している。それは、日本の大学には哲学部も歴史学部もなく、哲学や宗教や歴史は文学部のなかに組み入れられるていることに象徴されている。歴史上の画期であった前の戦争についてその責任を問われると、言葉のアヤと置き換えられて文学方面の範疇に入れられしまうことにも繋がっているようである。
 哲学や歴史への凝視が欠ける政治家たちは実学=金儲けに走り、論理性のない言葉を並べ立てるしかなくなる。政治には金がかかるのを前提とするならば、金のかからない政治を目指せばいいのであるが、政治家は恐らく金のかからない政治システムは望んでいない。

 <村田沙耶香 『コンビニ人間』(文藝春秋2016年9月号)>:評判ほどには入り込めなかった。舞台をコンビニとは異なる狭い世界に置き換えれば何にでも当てはまることではないかと思う。その世界でしか自己の安寧が得られない、あるいはそこに登場するダメ人間等々、コンビニと限るから特殊の世界のように思えるのかも知れないが、結局はすべての人間世界で共通に見られる人間模様である。だから読んでいて途中から倦きてきた。

 <雨瀬シオリ 『ALL OUT 9』(講談社、2016年)>:大学のラグビー定期戦が始まり、この漫画への思い入れも強くなる。女性漫画家らしい絵柄は相変わらず好きになれない。

 <花村萬月 『日蝕えつきる』(集英社、2016年)>:東北地方を中心とした江戸期の大飢饉があった天明期6年(1786年)の皆既日蝕の下、悲惨な死に落ちた5人の物語。「天明六年正月元日、日食皆既-。日蝕えつきて、未一刻にふたたびあらわれた太陽を○○がその目で見ることは、なかった」で各編は了となる。〇〇には各編の主人公の名が埋められる。
 軽井沢で飯盛女であった千代が江戸に出てきて夜鷹となり、唐瘡(梅毒)に罹り、総後架をやっとの思いで出て縊れようとして息を絶える。陰間茶屋にて美貌な陰間見習いの吉弥は踊りの舞台に立つ夢を持っていたが初めての客に菊門を壊されてしまい、商売道具とならぬ躰になって蔑まれ、飛び込んだ井戸の底で死ぬ。自堕落で狡猾ではったりばかりの身勝手な小心者の長十郎は提重筥で躰を売る妻女の靜に寄生しており、靜の稼業を知って嫉妬に狂った長十郎ははずみで靜を殺してしまい、妄想通りにはすすまない惨めな切腹で、しかし最後まで妄想のなかで死ぬ。容貌が劣る登勢は流人の島八丈島で貧しく生きており、口先だけの女犯僧に心も身も寄せるがその実は弄ばれている。妊娠し引きずり出された胎児が殺され、女と一緒にいた男がかけた筵の冷たさに顫えながら流し小屋で息をするのをやめた。次ニは飢饉での飢餓のなか死んだ父・母・妹を食み、江戸に出て無実の罪で牢に入り、無実を訴え続けて度重なる責苦や拷問にも自白せず、陽のあたらぬ故に日輪に敏感な牢内で牢名主に看取られて息絶える。愚か、残酷、陰惨、狡猾、等々の生き様の末に死ぬ、蝕える陽のなかの暗黒な小説群。
 文献のなかで日蝕に触れ、これらの物語の輪郭が泛んだという。文献調査、想像力の拡がり、人の死を凝視る冷徹さに驚嘆。

0 件のコメント: