2016年9月9日金曜日

最近読んだ本・漫画(1)

 8月末の土曜日、息子と彼の友人二人を交え、自宅で酒を飲んだ。その時に息子の友人たちに漫画をあげた。Yu君にあげたのはお下劣な漫画。これらは息子にあげてもいいのだが、そうすれば誰が渡したのか彼の嫁さんに知れてしまい、尊敬(?)されている我が身が地に落ちてしまう。だからYu君にあげた。田中圭一の漫画であって、電車の中では頁を開かないこと、昨年会ったことのある嫁さんにはもらった相手を言わないこと、の条件を付けた。もう一人のHi君には硬い漫画、大西巨人原作『神聖喜劇』全6巻をあげた。古本屋に持って行けば1000位にはなるかもしれないと言って渡した。
 若い人たち-といっても40歳前後だが-と飲むのは楽しい。カーテンにぶら下がっている家人作のネコも2匹もあげた。

 久しぶりに美園に行き、いつもの本屋に入った。家の自室には読んでいない本が数百冊あり、机の下やらベッドの下などにおいているので、今回は本を買うまいと思った。しかし、家人と昼食を摂り、少しの時間潰しで本屋に入ってしまった。唯ぶらぶらと店内を眺めるつもりだったが、漫画のコーナーに行ったら、シリーズ新刊と江戸人情話の作家が目に入った。結局それら3冊を手にとって、今度は小説のコーナーを歩いていたら、またもや食指を伸ばすものがあり2冊を買ってしまった。

 最近読んだ本・漫画を時系列的にメモ。

 <東谷暁 『不毛な憲法論議』(朝日新書、2014年)>:憲法改正あるいは改悪、自主憲法制定、明治憲法復活、護憲、いろいろと賑やかであるが、改憲にも護憲にも違和感を抱いている。憲法の頭に「平和」の冠を載せているのに抵抗感があるし、明治憲法への回帰なんて言動には驚くばかりである。憲法は時代の進みや社会的環境変化、世界情勢の動きで改正されてもしかるべしと思うのであるが、現代日本にはきちっと憲法を議論できるのかということにはかなり否定的である。
 憲法論議が不毛なのは、「憲法が国のあり方や国民生活の全領域のルールの基本であるとするならば、憲法について論じた本には、国のあり方について深い考察や、さまざまな領域についての粘り強い探求がなければおかしい」(3頁)のであって、「『国民主権』『平和主義』『基本的人権』と何度も繰り返して、あとはそれぞれの条文の解釈をこの三つの落とし所に着地させれば、それが憲法学であり憲法論だという」(3頁)のはおかしいだろうと冒頭で批判する。占領下で押しつけられた憲法だからとよく言われるが、そもそも敗戦という現実を直視してこなかったことに帰着する気がしてならない。自分の思いが次のように簡潔に書かれている。すなわち、「占領下において制定された日本国憲法」の制定の「そのときに生じた屈辱や矛盾を、いまも克服しないままにしてきた現代日本」(72頁)があり、「日本国憲法に関する多くの矛盾を、ともかく受容したことから遡及して納得のための理屈をつくる悪習はもうやめた方がよいのではないのか。それが『憲法学』という名を負っているにせよ、あるいは『歴史学』とよばれるにせよ、そこにあるのは占領下で他国に憲法をつくられながら、それを阻止できなかったという事実であり、いまだに奇妙な理屈を生産しつつそれを押し戴いている事態は、そこに何らかの心理的屈折を考えずには理解できない」(102頁)。
 そもそも国会銀を選ぶ選挙システムには疑問は持っているし、そこで選ばれる政治家および政治家集団は信頼できないし、伝統を大事にすることと伝統に囚れることの違いが分からない政治家も多いし、愛すべきこの国はどこに向かっているんだろう。

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