2016年7月10日日曜日

日本的ナルシシズム

 都知事選、参議院議員選挙が連日テレビや新聞で報道されている。市政であろうが国政であろうが選挙ではいつも大きな違和感というか嫌悪感がでてきてしまう。名前の連呼、声高の抽象的方針などを耳にする度にうるさく感じる。まして、幟を立てて統一された色のジャンパーを身にまとい、うるさく歩く集団をみると滑稽とさえ思う。突き詰めれば、結局はこういう日本はどうやって出来上ってきたのか、日本的集団行動はなぜ生じるのか、等々への思いがあって、その良くも悪くも「日本らしさの起源」に得心したい。 

 <堀有伸 『日本的ナルシシズムの罪』(新潮文庫、2016年)>:日本の集団的行動、過剰な自国賛美、曖昧な結論と誤魔化し、優しい国民性、自然災害への耐性、などなどの傾向はなぜ生じるのか、生じてきたのか、この新書を読んで数歩は前に進んだ気がする。個人の尊厳と集団利益、自然との対立/宥和、現実(具体・感覚)容認と抽象・理論の回避、絶対権力と飾られる権威、道徳と法、自我が対立する対象、日本語の言語特性、・・・・・。繰り返しでてくる「想像上の一体感」がわかりやすい。しかし、この本で説明される図は文章をよく読まないと判りにくい。何度も振り返ったが今ひとつ判っていない。
 三土修平『頭を冷やすための靖国論』(ちくま新書、2007年)115頁の図(「公」の平面に貼り付く「私」と直角に向き合う「私」)がわかりやすく、この図を成す起源と現象を頭に置いて考えるとすっきりしてくる。また、ヨーロッパの絶対王制においては誰も王に代われないが、権力のない「天皇」に対しては誰もが「小天皇」として天皇に代わり得る(なりすませる)。この「小天皇」という論理は、日本の、特に戦前における集団主義と支配の形を納得させる。ラディカルなまでの平等主義は激しい競争社会に繋がり、羨望を生み、分業システムに貧弱となってタテ割り社会を生み、優れた官僚社会を生んだ。・・・・明解。
 「母親と幼児の対立/依存性」から「日本的ナルシシズム」への絡みは今ひとつピンと来ていないが、「日本的ナルシシズム」とは何かということに対しては、本書に書かれている内容と現実を照らし合わせ見ると分かりやすい。
 著者の主張をごく簡単にまとめてしまうと次のようになるであろう。すなわち、日本は、「想像上の一体感に依存する精神性を克服して、責任を負える自我の能力が養われる必要があ」り、一方、「過度の抽象化や理論化に不健全さを感じ、体験に基づく直感、自然との接触、親密な人間関係から受ける情緒的な影響を重視して行動する日本文化には、西欧近代の行き詰まりを乗り越える潜在力がある」。 

 報知新聞調査で、選挙民の8割は憲法改正2/3というその「2/3」を知らないらしい(8日朝のテレビ朝日)。意外だった。あれだけ新聞やテレビで報道されているのに、多くがそれを知らないなんて、もしかしたら憲法に触れない安倍首相の作戦が功を奏しているのか、或いはこれが民衆の現実なのか。要は、この国の先の姿を左右する選挙であるのに、所詮民主制選挙はこれが現実ということなのであろう。そもそも参議院議員選挙と衆議院議員選挙の何が違うというのだろう。参議院が「良識の府」であらんとするなら、政党排除、立候補者制限、などという提案が出てもおかしくないと思うのだが。
 映画『雨上がる』の宮崎美子の台詞を借りれば、「大切なのは何をしたかではなく、何の為にしたかではありませんか」であろうが、見えてくるのは、「議員になるにはどうすべきか」だけを考えてがなり立てているようである。

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