2022年3月16日水曜日

ジョン・ダワーとコシュマンの本を読んだ

 テレビや新聞、webでのニュースでウクライナの状況を毎日知る。どうしようもない悲しみ、憤り、人間の愚かさ、一方では勇気、そしてどうしようもない焦躁、ある種の諦念、人間の業、等々が頭の中で揺らぐ。小額の寄付をすることで尚更にまたやるせなさが膨らむ。
 また、アジア・太平洋戦争における昭和前期日本の侵略やその正当化政策、虚偽で固められた大本営発表、報道統制、国民の歓喜、少数の抵抗と彼らへの弾圧、などを相似的に結びつけてしまう。
 ・・・いろいろなこと、どうしようもないもどかしさ、これをどう落ち着かせればいいのか答に結びつかないまま思い倦ねるしかない。

 <ジョン・ダワー 『敗北を抱きしめて 増補版(上・下)』(岩波書店、2004年)>:もっと早く読むべきであった。戦後の米国占領期の歴史を知るにはもうこれ一冊で十分ではないかとさえ思える。占領軍への批判も、もちろん日本へのそれも鋭く、特に天皇をめぐる論考は明解であり、日本の基底にずっしりと根を張っているものがどういうものなのか輪郭が鮮やかに浮かび上がる。前回読んだ豊下楢彦の内容と合わせると今の日本に内在する病巣も得心できる。
 ロシアのウクライナ侵攻が続いている今現在、プーチンは勝利後の統治について第二次大戦後の米国の日本における統治システムを学習しているとの報道があった。75年前の米国をロシアに、日本をウクライナと置き換えればなるほど大いなる参考になるのであろうと妙に、皮肉っぽくではあるが納得できる。もちろん、そこにある日本は貶まされている。

 <ヴィクター・コシュマン 『戦後日本の民主主義革命と主体性』(平凡社、2011年)>:明治維新を革命と呼ぶことに抵抗感が拭えないし、同じく戦後の民主化を民主主義革命とすることにも抗う気持ちがある。それは横に措いて、本書を手に取った当初は、敗戦後日本の民主化における、日本という国や政治の主体性を論じているものと曲解していた。
 しかし、「本書は第二次大戦敗戦後、占領下にあった日本の知識人のあいだで「主体性」概念と民主主義の政治的・社会的可能性をめぐって展開した論争状況を分析するものである」(「日本思想史研究と現代民主主義論の接点で-訳者あとがきにかえて-」)。
 『岩波 哲学・思想事典』よりの引用を繋げると、「主体性」は、明治時代以〈subject〉の訳語として用いられ、主体は最も具体的かつ客観的な実在として,認識や行為の担い手と見なされるものであって、第二次世界大戦直後の日本で社会変革への個人の参与のあり方をめぐって「主体性論争」が闘われた。直接のきっかけは,主として雑誌『近代文学』による文学者たちによる「第二の青春」論であつた。彼らは,マルクス主義の残影と輝かしき大東亜共栄イデオロギーの間を揺れ動いた自分たちの「第一の青春」の無力さ・不毛さを自ら問いかえしつつ,しかし見て見ぬふりをしてきた各自のエゴイズムを正直に承認し,そこから発する「自己の内的必至に忠実」な「高次のヒューマニズム」を提唱した。そして,それが論争になったのは,西田哲学から和辻倫理学をへてマルクス主義へ転じた梅本克己が,47年から48年にかけて,主体の参与にかんするマルクス主義理論の「空隙」を問題化したからである。彼が提起したのは,「小我を滅して悠久の大義に生きる」式に侵略の銃をになうことを哲学的に正当化した京都学派と,戦後の日本共産党の革命の扇動との類似性であり,そこにおける個の単独性の欠落である。近代的個人の理性的合意による民主主義を主張する潮流と,階級形成を呼号する潮流の対立に終始したのが,主体性論争であった。後者の潮流が,梅本が問題化したような「空隙」は革命という世界史的必然への献身をためらう小ブルジョアの頭の中にあるだけだ、と決めつけていらい,過度に政治主義的色彩を強め、結局は曖昧なままに拡散した。
 結局は学生時代に知った著名知識人の名前が懐かしかっただけで、本書の分析が何の意味をなすのか理解できず、関心もなくただ退屈なだけの大著であった。

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