2022年10月18日火曜日

『マンガ猥褻考』

 <黒鉄ヒロシ 『マンガ猥褻考』(河出新書、2022年)>:「猥褻」とは何かと己に問いかければ、それは、「日常と非日常の境目」にあり、権力(者)が、個人的な性的嗜好を横に措いた上で社会秩序なる言葉を前面に出し、組織の中枢で生きる彼らがその個人的経済的安定を背負い出世のために理論(屁理屈)を駆使して庶民を抑圧し、一人になれば芸術愛好と称して枕絵(春画)に魅入り、下手すれば家庭が大事と旧統一教会の信仰に囚われて政治生活を営む。何を言いたいかと言うと、「猥褻」とは個人にとっては深く考えるものではなく、(家庭から国家までの)社会組織を意識したときに観念するものでなかろうか。・・・自慢気に言えば、以上の文章にはSprangerの6種の価値観を含んで編んでみた。かなり支離滅裂ではあるが。
 猥褻は、社会を意識せずにすめばFreedomな範疇にあり且つLibertyなものであろう。面倒くさいのはやはり、社会規範などを意識したときである。尚、手許にある英英辞典から引用すれば、Freedomとは「the right to do what you want without being controlled or restricted by anyone」であり、Libertyとは「the freedom and the right to do whatever you want without asking permission or being afraid of authorit」である。
  “「日常と非日常の境目」にある「猥褻」”というフレーズから頭に浮かぶのは、絵画「世界の起源」であり、且つその前で脚を拡げて局部を拡げる女性の姿勢。絵画を見ればそこには作者の哲学はどうなのかとの想いが沸騰するお湯の泡の如くに沸きだし、女性が局部を拡げる様態を見れば政治的抗議や社会的抵抗を想う。
 西洋のバイブレーターは当初ヒステリー症状の治療に使われたらしいとある(性的緊張からの解放治癒ヵ)。一方日本の張形は職人の工芸品を思わせ、房事に与れない孤独を埋めた(煩悩からの解放ヵ)。なる程、西洋では治癒を求め、我が国では内省的に道具を求めるのか、なんて何となく得心した気分になる。ちなみに今PCのキーボードに向かっているこの時間はバーボン・ウィスキー(Woodford Reserve)を飲みながら書いている。
 「エロ、スケベ、好色、色情、色欲、リビドー」、黑鉄さんは海だろうが谷だろうが、まずは「猥褻の森」と書く。無論、オレとてもその森から出ることはできず、出る気持ちもなく、モニターに映る女性の画像を見ては、奇麗だ、可愛い、素敵だ、頭が良さそうだ、・・などと妄想を抱くに過ぎない。でもこれって猥褻の部類なのか、否、そうではなく人間や社会を見つめているに過ぎない。「日常と非日常の境目」を「正義と不正義」、「正常と異常」と解釈すれば、現在の社会的事情を正視せずに「丁寧な説明」などと空疎な言葉を並べるだけの今の国内政治や、ロシアのウクライナ攻撃は社会的な「猥褻」ではないかとの思いもする。
 ・・・・酔いは深まっている。

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