2018年1月9日火曜日

バードの紀行、武家ミステリー

 <イザベラ・バード 『日本奥地紀行』(平凡社ライブラリー、2007年)>:かの有名なバード女史は辛辣な言葉を並べる。率直に受ける感想は、彼女は眼に入る光景や、人々の物腰の柔らかさ、慎ましさが心地よければ礼賛し、汚れた衣服、みすぼらしい家や村をみればこき下ろす。明治10年頃の日本の奥地の生活がなぜそうなのか、そこに生きている人たちは何を思い、何に喜びを見出しているのかといった内面に思いを馳せることはない。初めて見る光景を表面的に書き写しているだけではないかと感じた。
 「未開国」日本の奥地、さらにアイヌの人々を世に知らしめるという価値はあったであろうし、そういった面では優れた旅行記であったと思う。ベストセラーになったことも理解できるが、それは単に今までに知らなかった「未開」の国を好奇心のままに眺め回ったというだけにも思える。日本人が他国・他民族を見下したのと同じように、バードも日本を見下していたし、それはもうしようがないことだったのであろう。
 勝海舟の三男で甲斐性なしの梅太郎と結婚したクララ・ホイットニーはバードを、「日本を馬で旅行している奇妙な婦人」と切り捨て、「実にいやな老嬢イザベラ・バード」は「本を書くつもりで、誰にでもしつこくいろいろきき出そうとするので、誰もそばにへ行きたがらない人物なのだ」と断じている。クララのこの表現は的を射ているだろうと想像する。(クララに関しては森田健司『外国人が見た幕末・明治の日本』による。)

 <青山文平 『遠縁の女』(文藝春秋、2017年)>:中編3編。
 「機織る武家」:百石取り育ちの往事に逃げている姑、入り婿先の嫁が死んでしまい、何かとぼんやりしている無能な夫、その夫に嫁ぎ、実家も消滅した機織が好きな縫。血の繋がりのない3人が、食い扶持を減らされ、縫は機織で賃働きをする。次第に変わっていく姑と夫。縫の従順で、深刻にならず、まあ仕方ないとする生き方にある種の逞しさを覚える。
 「沼尻新田」:クロマツ林を清める郷士の美しい娘、名前を聞くこともなかったその娘とクロマツ林のありように魅入られた32歳当主の、砂地新田開発の真の狙いはそのクロマツ林の領主になることであった。おとぎ話のような感あり。
 「遠縁の女」:この中編のタイトルが書名となって、「このミス2018年版」の第7位になった。父親から5年の武者修行に出ることとなった若侍片倉が、当所は2年で帰る積りではいたが結局は父親の死によって5年を経て帰郷する。そこに待っていたのは遠縁の信江の父と、彼女の夫の死。その夫は優秀で片倉の友人でもあったが、義父とともに腹を切っていた。弔いに出かけた片倉に信江は謎の言葉をかける。その謎を解くために禁を犯して片倉は信江に会いに行く。知ったことは、5年前の武者修行に出かける際の父と叔父の思惑であった。魔性とも思える美女の信江、信江の謎の言葉に嵌まってしまう片倉。謎解きの展開は面白く、いままで味わったことのない武家ミステリー。が、物語の構成に無理を感じる。人望のない、金もない右筆に御主法替えを委ねる国などあるまいに、それに信江は妖艶すぎる。
 青山文平の小説は『白樫の樹の下で』以来、7年ぶり2冊目。楽しめるのであるが、一歩近づけない。何故か、多分、描かれる主人公の思いや、求めるものに取り組む姿勢に甘さを感じてしまうことにある。また、長くはない物語にいろいろ詰め込んで散漫さを覚えてしまう。表題作ではなく、自分は「機織る武家」に最も惹かれた。

 6日、新宿で痛飲。帰りの電車乗り越しの心配がないからと、昼12時からの飲み会を要求したにもかかわらず、山手線を一周かニ周したみたいで久々に(昨年7月以来の)遠距離タクシーで帰宅。夕方に帰ればいいものをついつい「青酎」の店を思い出し、そこに友人を誘ったのが躓きだった。ついついとかなり焼酎がすすんでしまった。自分のだらしなさに落ち込んでしまっている。今後、出かけて飲むときは友人たちに予め時間制限を依頼しておくか、花見や新年会のみならずすべての飲み会は宿泊前提にするしかないかと、まだ気持ちが沈んでいる。
 どんなに遅くまで飲んでも歩いて帰れた富山市、近距離のタクシーで帰ることが常だった綾瀬市の時代が懐かしい。問題の本質はそういうことではないのであるが・・・。

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