2017年8月2日水曜日

小説週間のラスト

 小説だけを読むのは一旦これで小休止。次からはまたメインを一応「幕末・明治維新」に戻す。で、読んだのが連続して女流官能小説家、花房観音の最新単行本。

 <花房観音 『色仏』(文藝春秋、2017年)>:朝日新聞日曜版(2017年7月9日)の書評に掲載されており、故にこれは-書名は如何にも“それらしく”はあるのだが-単なる官能小説ではあるまいと思い直ちに購入。要は“高尚な官能小説”を期待していたのである。
 冒頭、親鸞の「女犯の夢告」が記される。
 近江の寺に捨てられた男、烏は親も生地も知らずにいた。彼は村の月無寺にある十一面観音に魅せられ、それこそが究極の女性像と信じる。僧侶になるために京に上り寺に入るが観音像を彫る仏師にならんと寺を離れ、活計を得るために女の裸を木に写し取る仕事に就く。足を開く女を深く観察し細密に筆に落とし木を彫る。烏は、観音像を作り上げるに自らを律して(勃起はすれども)目の前の女を抱くことはしない。家主でもある女、真砂は背に観音の彫り物があり、烏は、彼女の性交時に見せる背の観音にかつて村で見た十一面観音を投影し、背に彫った男に畏敬の思いを抱く。裸を曝す女たち、男との交わりを繰り返す真砂、女に交わらない烏、真砂の背に観音を彫った男が短い物語を編む。真砂の背に彫った男と真砂が交わるその官能を見て烏は観音像を彫るが、真砂はその像を鴨川に放り投げる。なぜなら交わりを見た烏は勃起せず、それを真砂は見抜いていた。二人は新たな思いで塒へと歩き出す。
 舞台は京都、時代は幕末でペリーが浦賀沖に見えた頃。濡れ場を描き続ける官能小説とは趣が異なり、女に対する烏の内面描写が思索的であり、虚無的であり、本能的でもあり、楽しめた一冊。ただ書名『色仏』はいただけない。これでは寺の本堂におけるめくるめく淫猥な性交描写を思わせてしまう。いっそのこと作者名にあわせて「観音」とでもすればまだよかったのかと思う-観音を開くシーンも多いし-。
 「長い平和を保ってきた幕藩体制が黒船来航を機に崩壊へと向かう時代の文脈と、主人公が抱いてきた究極の女性像が現実のなかで虚像と化してゆく過程とが、見事に重なっている」との書評(原武史)は時代に結びつけすぎであろう。しかし、「少しだけ出てくる京都の公家や天皇がさらに輪郭を帯びれば、より深みが増したようにも思われる」には同感し、欲張れば仏教や仏師の深遠、観音像の歴史的意義などに触れればこの「官能小説」はもっと厚みを増すであろうと思う。
 16年程前に読んだ、真言立川流文観を描く黒須紀一郎の大作『婆娑羅太平記』を思い出した。
 ”花房観音”とは女性官能小説家に相応しい名である。花はあそこの花びら、房は乳房の房、観音は言わずもがな。勤めていた頃、「俺は毎朝奥さんのスカートをひょいとめくり、観音様に向かって手を合わせ、それから家を出る」と仰っていた、社内結婚した、オレをいつも下の名で呼ぶ、取締役がいた。いい人だった。・・・ちょっと酔っている。

0 件のコメント: