2022年12月29日木曜日

渡辺京二さんが逝去

 渡辺京二さんが25日に老衰のため自宅で死去した。92歳であった。お通夜は26日で葬儀は縁のある真宗寺で27日。自分の読書歴を画するような気持ちである。

 『逝きし世の面影』を2007年に読んだときから渡辺さんの著作に入れ込み、会社勤めのときは自席で昼食を摂るのと並行して本を開き、1年半ほど続いた。もちろん他の本も読むのでその間に読んだのは14冊に過ぎない。それからは大学の通信教育を始めたこともあり、彼の著作を購入はすれど読むのをサボっていた。最近その積ん読状態だった本を続けて読み始めた。これは自分の年齢が重なってきたこともあり、読んでいない本をきちんと読もうとの気持ちもあり、店仕舞する在庫一掃の体をなすようでもある。このように15年ほどにわたって渡辺さんの本に接してきたので、その死去は自分の中である期間の時の流れを画す気持ちである。
 現在まで27冊の著作を読んできたが、未読のものがまだ8冊もある。

 <渡辺京二 『日本詩歌思出草』(平凡社、2017年)>:知っている詩人はいるけれど、目に触れた作品はない。それに、書かれている内容がストレートに入ってこない。これは単純に自分の感性の欠落に起因する。
 若い頃は中原中也や萩原朔太郎、三好達治、宮沢賢治、石川啄木といったある意味学生にとっての必須教科のような気持ちで詩歌に触れた。当時は好きな詩もあって抜き書きして机の前においていたこともあったが、若き頃の感傷的な空気に漬ったに過ぎない。啄木は好きになれなかった(なれない)―勤務先での青森県出身の同僚と宴会で席を同じくしたときに啄木の悪口を言ったらその同僚が怒り出したことを思い出す-。宮沢賢治にも距離をおく感覚である。
 いくつかの詩集を買って目を通したのであるが、手元にあるのは高橋新吉の詩集だけである(1972年に購入)。特に好きな詩は「鐙」であって、その三行詩は次である。「鐙を踏み外す事は正なり 全き調和は死なり 太陽も僕から見ると子供だ」。最後の1行はいまもって違和感というか理解できていないが、最初の2行は今も世の中を見る自分の思いに合致している。その詩集では他にも好きな詩がいくつもある。
 大学3年か4年ときに東京駅地下にある郵便物仕分のアルバイトをやっていたとき、明治大学の学生からダダイスト辻潤を教えてもらい、辻潤に関する本を読んでいたときにダダイストなる言葉の延長で高橋新吉の詩集を手にしたと思う。
 ・・・渡辺京二さんの本から脱線してしまった。

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