2022年1月23日日曜日

本2冊

 寒いし、コロナ第6波のウェーブは急峻であるし、さらに外へ出かけなくなっている。家の中でテレビに録画した番組を流しながら本を読んだり、長時間新聞を眺めたり、いま入れ込んでいることをPCで調べたり・・といったことだけである。昔ほどにはニュースも見なくなっている。 酒精、都度買いに行くのも面倒になり、焼酎の一升瓶をまとめて5本買った。九州のものでついつい飲み比べたくなるが、酔うと何も出来なくなるので飲むのはほぼ隔日で、量もほどほどに抑えている。

 EWIの練習関連で楽譜の見方の学習や、♯や♭の多い曲を移調して楽譜に落とし込んだり、楽な運指パターンを考えたり、チャートを作ったりと結構な時間を費やしている。EWIに直接触れる時間よりもこのような関連作業をすることが楽しいと感じるのはいつものこと。好きな曲の楽譜を買ったり、DLしたり、バック・トラックを捜したりと入れ込んでいる。そしてEWIを鳴らせばまだまだ入口にやっと立っているような状態である。同じ曲を何度も何度も繰り返し練習していれば少しは上達するであろうと淡い夢をみている-妄想カモシレナイ。

 <逢坂冬馬 『同志少女よ、敵を撃て』(早川書房、2021年)>:モスクワから徒歩で2日を要する寒村で母と暮らす16歳の少女セラフィマはドイツ軍に襲われ、母が殺され、村で一人生き残り、イリーナに狙撃兵となるよう彼女の隊に組いられ狙撃兵となる。セラフィマの復習する相手はドイツ軍と母を殺した狙撃兵イェーガー、そして村を焼き、唯一の写真を放り砕いた上官イリーナ。
 セラフィマは優秀な狙撃兵で、少女狙撃隊の仲間と供に成果を上げ続ける。最後の激戦地ケーニヒスベルグの戦の章において、セラフィムのそれまでの日常の戦や同僚・上官との葛藤、イリーナの思いなどが凝縮されて描写され、イェーガーへの復習も果たす。良質の戦争映画を見るように臨場感にあふれ、スピーディーに展開され、小説の楽しみを味わった。
 文中にでてくる次の言葉「費やした日数を数えるな、歩いた距離を数えるな、殺したドイツ人を数えろ」、ここにある言葉を少しでも言い換えれば、いろいろな場面での戒めとなる。

 <桐野夏生 『インドラネット』(角川書店、2021年)>:カンボジアが舞台。ストーリーの展開に引き込まれ頁はどんどん進むが、最後になって訳の分からない中途半端な域に入ってしまった。現地の婆ちゃんは日本で大学も出ていて「まとも」な人であるが、あとは訳の分からない、中途半端な怪しげな人ばかりで、主人公に至ってはどうみても社会に爪はじきにされる自堕落な若者。彼が追い求める空知に対して抱く感情も理解できない。読んでいてコッポラの映画「地獄の黙示録」を思い出したが、その映画で展開される狂気や世界観、圧倒的な凄絶さ、破滅性は本書では描かれていないし、一体著者は何を描こうとしたのかとモヤモヤとして感覚が残った。帯には「現代の黙示録」との紹介文があるが、描写される日本人がどれもがまともではなく、その存在自体が日本という国における黙示録的な象徴なのかとも感じる。黙示録的描写が東南アジアを舞台にしてしまうのは、おそらく熱帯の、体温のような湿潤や沼、そこに浸ってしまう渾沌、猥雑、無秩序、頽廃などが想像されるからであろう。・・・「地獄の黙示録」を再び観たくなる。今観たらどのような感じを受けるのだろうか。

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