2022年9月22日木曜日

宗教の勧誘

 ○○新聞が郵便受けに入っていた。新宗教と分類されるある宗教の布教を目的としていて、記事は会長講演の内容、誰それが何それに任命されたとの人事、前政権批判、敵対する宗教団体批判、布教活動の成果、個人的信仰の深さ、等々。こちらの意図に無関係に、年に何回か目にするいつものパターンであり、さっと眺めて廃棄する新聞の中に混じり込ませた。
 翌日、鳴ったチャイムに応じてモニターを見たら中年と思しき女性が、昨日○○新聞を入れさせていただいた者ですがと話しはじめ、すぐにあらゆる宗教勧誘を拒否している旨伝えたら、一方的に何かしゃべり始めた。それには応じず強い言葉を発したら返す言葉を失ったようで黙って背を向けて帰っていった。

 布教する宗教を受け入れる気持ちは皆無である。宗教という限定された言葉は使わずに、自分で自分の周りの事物を見つめ、考え、自分自身のこととして何かを追い求めたいと思っている。だからなのか、高校時代に人生というものを考える方程式はないものかと漠然と思ったときがあった。

 数日後、今度は別の新宗教のチラシが入っていた。前期の教派と同じく昭和30年代初期に設立された宗教であり、かつてドライブを楽しんでいたときにこの宗教の壮大な建築物を、驚きをもって眺めたことがあった。

 直接的に宗教の勧誘をされたのは高校3年の時で「エホバの証人」であった。何も知らずに下宿先の自室で話を聞き、40代前後と感じた男性は絵入りの聖書をおいていった。何か違和感を覚えたのであろう、あるいは鈍感だったのか、さらりと受け流して終った。

 あらゆる宗教の勧誘や案内説明はすべて直ぐに拒否している。玄関先に来たら、相手が丁寧な言葉遣いをするときは丁寧に端的に断り、しゃべり続けようとする人には強い言葉で応じる。街中や駅前で声をかけられたことは一度もない。
 他人に布教しようとするその行為はどこから来るのか、何故なのか、今もって明解には理解できない。理解しようとも思わない。

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