2025年4月23日水曜日

桜の鶴ヶ城、日本語の本とミステリー

 高校1年の時からの友人が数日前に写真を送信してくれた。鶴ヶ城を後背にして桜が美しく咲いている。どちらの写真も中央に鶴ヶ城が写っており、16歳の春、奥会津から会津高校に入学し、少し心を弾ませて城内を歩いた春の日を思い出す。 

 先日、BSにて会津若松を舞台とした1962年の映画「春の山脈」(鰐淵晴子・十朱幸代が出演)を観た。63~64年前の市内や東山温泉の情景が流れ、二つの写真と相俟って中学から高校にかけての自分の姿がモノクロになって脳裏に浮かんできた。
 
 <飛田良文 『明治生まれの日本語 (4版)』(2024年、角川ソフィア文庫)>:言葉は活きている。明治になって新しい概念が輸入され、新たなる日本語が考え出された。その新たな言葉がいつどのように作られたのか解かれる。それはそれで楽しめるのであるが、不満も残る。それは人々が実生活の中でどのように語られ、或いは書かれたのか、端的に言えば実生活での乾きや湿り気のような空気を感じ取ることが出来ないからであろう。「電信」が広まってきた頃、事実なのか否かはさておき、風呂敷包みを電線にぶら下げて送ろうとしたという逸話があった。こういうことにこそ「電信」の言葉が活きてくる気がする。また、例えば「哲学」という言葉について言えば、西周がこの訳語を生み出すまでに至った経緯や思考などを知りたいと思う。

 <古処誠二 『いくさの底』(角川文庫、2023年/初刊2017年)>:日本軍がビルマに進展していた頃―多分1943年頃、ビルマ北部の小村において警備隊を将いる賀川少尉が着任直後に殺される。日本軍・重慶軍・村のリーダーと人々たちが構成する村で賀川少尉を誰が何故殺したのか探索が始まる。そして続いて村長も惨殺される。
 頁を開くと最初に書かれている文章は「そうです。賀川少尉を殺したのはわたしです。(中略)二度と訪れない好機が巡ってきて、それでも行動を起こさずにいられるものでしょうか」。「わたし」とは誰で、「好機」とは何を意味するのか。「行動」を起こす動機は何なのか、最後にはすべて明かされる。戦場における「わたし」の置かれた状況、重慶軍と日本軍の傘の下で生活しなければいけない村の状況、殺人の背景、これらの全てが戦という鍋の深みにある「いくさの底」である。そして事件解明後の展開もまた「いくさの底」からの新たな展開を生じさせている。
 特異な状況下における卓れたミステリーを楽しめた。

2025年4月17日木曜日

雑記、雑読

 友人に十朱幸代が歌う2曲-「セイタカアワダチ草」「風の盆」-を送ったら、スコアを作成してくれた。彼の耳コピ能力は凄いと思うし、有り難い。ボーカルをカットしたファイルも作りこれも彼に送った。MuseScoreを活用して自分のEWI演奏スタイルに合わせて移調し、そのうちに練習することとなる。
 現在もある海外のマイナーな曲をカラオケに重ねるべく練習はしているが、もとより演奏技術は劣るので遅々として満足のいくものにはならない。一方では演奏しようとする楽譜を暇にまかせて作っているので、楽譜は増えるが演奏する録音ファイルはなかなか増えない。
 友人の作ってくれた楽譜で課題練習曲はまたもや増えた。

 <古町・魚豊 『Dr.マッスルビート 1』(秋田書店、2025年)>:魚豊の名を見てこのマンガを購入したが、表紙を見て”違う”と感じ、奥付を確認したら魚豊は「1巻原案」とあった。読んでみた1巻はマッチョ入れ込みの青年が昆虫にのめり込むプロローグといったところ。取敢えず(とは好きな言葉ではないが)数ヶ月後になるであろう次巻にも眼を通してみよう。続けて読むか否かは次巻次第である。

 <神長正博 『ウソを見破る統計学 退屈させない統計入門』(講談社ブルーバックス、2011年)>:高校のとき「確率と統計」は好きじゃなかった、不得意だった。特に統計学独自の数学記号には馴染めなかった。そういう背景もあろう、もっと卑近なエピソード的事例を期待したのだが、外れた。でも、一度は頭に入っていた統計用語が記憶の底から浮かび上がって面白かった。

 <堀越英美 『エモい古語辞典』(朝日出版社、2022年)>:数時間かけて全体に目を通す。無論1%も頭に中に残りはしないので、興味ある言葉の載っている頁には付箋を貼っておく。言葉の豊かさに浸って心地よい。しかしながらコケティッシュな表紙や挿絵を見れば、上品な色恋の情景を浮かばせる言葉の解説が欲しい。

 <豊永浩平 『月ぬ走いや、馬ぬ走い』(講談社、2024年)>:恰も凝縮された前衛音楽が時代や人間社会を超速で表現しているような、圧倒的なスピードで戦中から戦後を駆け抜けた感じがした。また、別の表現をすれば、底の見えない井戸を覗くように深淵を探るような鋭角な視線を感じた。
 21歳の作者が、言葉を爆けさせて駆使してこのような小説で歴史を表現すことにすることに驚きがあり、2作目はどのように描いていくのだろうと興味がある。新しい世代の新しい文学と言っていいのだろう。正直に言えば、刺激的だが少し疲れて途中で倦きも出てきた。

2025年4月3日木曜日

4月、雑読

 もう4月、今年も4分の1が過ぎ去った。4月に入って親しい友人たち2人と一緒に3人で76歳を迎えることになる。知り合ったのは高校入学時に同じクラスになったことで60年前のことだった。そして娘の長女は高校生になって大宮に通うことになる。彼女の年齢に自分を重ねては斑状に昔を思い出す。

 <山本弘 『ニセ科学を10倍楽しむ本』(ちくま文庫、2015年/初刊2010年加筆)>:楽しめた。そして何故にこうもバカが多いのかと呆れもする。

 <白石一文 『Timer 世界の秘密と光の見つけ方』(毎日新聞出版、2024年)>:Timerは89歳までの健康長寿を保証された装置で、89歳のカヤコはそれを装着している。一方、7歳年下のカズマサは付けていない。生きるとは何か、この世界とは何か、思索することに満ち溢れた一冊。白石さんの小説にはいつも魅了され、この本にも、想像力と深い思索と物語の構成・展開にすごさを感じる。
 終わりにある次の言葉が鋭くて深い。すなわち、「いまこうして、あなたたちがいるのは、同じゴンドラの乗り手が重なり合っているからに過ぎない。すべてはあなたのイメージであり情報なのだ」とはTimerを発明したサカモ博士の言葉。そして、「あなた自身が世界なのだ。この世界は、あなた自身がすべてを作り出したものなのだ」。

2025年3月20日木曜日

Spring is Nearly Here

 3月も後半に入り、桜のニュースも見聞きするようになったこの季節、50年以上も前のShadows-Spring is Nearly Hereが流れてくるような心地になる。

 高校入試が終わり、4月から高校生となるCチャンが立寄り、長い髪の溌溂とした15歳の彼女が大人になってきたとつくづく感じる。彼女がすぐ近くにある家に帰るときは必ず送っていくのは15年近くも続けている習慣であり、話しながらの短い時間は楽しい。

 <窪田新之助 『対馬の海に沈む』(集英社、2024年)>:対馬におけるJA共済22億円の横領が発覚し、「神様」と呼ばれた一人の職員が車で海に沈んだ。共済を装って不正融資で得た金を得たのは西山だけなのか、丹念な調査と取材を通じてJAの構造的問題、地域組合員との狎れ合いを露にしていく。人間個人の愚かさというか滑稽さ、腐る組織の典型例、個人へ転嫁する狡さ、等々。
 この本の読み方には二つの側面がある。一つは先に書いた人間と組織の有り様、もう一つは著者の真相に迫るアプローチである。どちらの立場でも途中で頁を閉じるのを躊躇うほどに楽しめた。

 <周防柳 『小説で読みとく古代史』(NHK出版新書、2023年)>:サブタイトルには「神武東遷、大悪の王、最後の女帝まで」。古代天皇史を概観し、その時代を描く小説が紹介される。全くつまらない一冊であった。史実を題材にした小説はその作品の著者の解釈(あるいは思い入れ)に基づく創作であり、それを承知の上で楽しむのはそれで良しとし、自分も時にはその視座で楽しみもする。しかし、歴史学者の論ずるテキストを開き、そこから湧き出る関心を小説に向けるというプロセスなしに、単に羅列される小説の紹介を読んでもつまらないの一言に尽きる。逆に、『天皇の歴史』(講談社)やその他の歴史書を再読しようかなという気持ちが出た-時間的に無理だが。

2025年3月13日木曜日

雑読

 <石井千湖 『積ん読の本』(主婦と生活社、2024年)>:本書に登場する「積ん読」人たちの書斎あるいは家中に積まれた本の写真に圧倒される。購入した本は基本的に読むべきであるとする自分は、まだ読んでいない本が目に入る度にある種の罪悪感に苛まれる。積ん読の程度に雲泥の差があるけれど、その積ん読人たちの言葉に少しホットする。
 以下、そのホットする言葉を幾つか引用しておく。
 「好書家は如何に速読家でも或る程度に於てのツンドク先生たらざるを得ないだろう。だが、ツンドクの趣味を理解しないものは愛書家で無いのは勿論真の読書家でも亦無いのを信じて、私は常にツンドク先生に敬意を表しておる。(内田魯庵「多忙なる読書と批評の困難」)」。「作家の奥泉光さんが、背表紙を読んだだけで本は読んでいることになる、そして読み終わることはないと言っていました」。「本は知識のインデックス積まなくてどうする」。「本は<冊>という単位で考えるべきではない。本は物質的に完結したような顔をしているけれども、あらゆるページと、瞬時のうちに連結してはまた離れるということを繰り返しています。一冊の本を読んでいるつもりでも、読んでいるときの頭のなかには、いろんな本のページやパラグラフが読み込まれている。本は常に進行中・生成中のヴァージョンだから、表紙から裏表紙まで読んでも読み終わることはない。何が書いてあったかを忘れてしまうのもあたりまえです」。そして次の言葉は読書することの本質をついていると思う。すなわち「過去と現在と未来、三人の自分と協力プレイして一冊の本を読んでいるんですね」と。
 本書に登場する人たちと、少ない読書量の自分を横に並べることは不遜でしかないことは自覚している。

 <青山透子 『日航123便 墜落の波紋 そして法廷へ』(河出文庫、2025年/初刊2019年)>:著者は「日航123便墜落事件」に関して8冊を著しており、その中で最初に読んだのは『日航123便墜落 遺物は真相を語る』。今回はそれに続いての2冊目。最近読んだ森永卓郎さんの『書いてはいけない 日本経済墜落の真相』も含めるとこの事件の本は3冊目となる。所謂権力側の見解や調査報告は読んでいないけれど、出典や論拠を明らかにするこれら3冊の本は全面的に信頼している。そして、今後とも事件の真相調査はなされることはなく、隠され続け、関係者は沈黙し、ただただ忘却されることになるであろう。

 <八木澤高明 『忘れられた日本史の現場を歩く』(辰巳出版、2024年)>:飢饉で故郷を離れる、開墾する、国策で満州に渡るが敗戦によって土地を失い引き揚げて「新しい地に入植、原発事故、地震、津波、洪水・・・・消されてしまう人々の生活。すべてが歴史の中に埋もれている。
 著者が「好んで歩いてきたのは・・・(中略)・・・どちらかというと、由緒正しきものではなく、悲劇や血に彩られた悲しい歴史で」あり、本書に描かれたは下記の19過所。
 独自の呪術信仰”いざなぎ流”-拝み屋が暮らす集落/ハンデミックの悲劇-面谷村/インドから帰ってきた女性-からゆきさんがいた村/蝦夷に流れ着いだ和人たちの城-志海苔館/かつて栄えた風待ちの港-大崎下島/『遠野物語』に記された”アンデラ野”-姥捨山/海外への出稼ぎ者が多かった土地-北米大陸と繋がっていた村/本州にあったアイヌの集落-夏泊半島/朝廷に屈しなかった蝦夷の英雄-人首丸の墓/国家に背を向けた人々の”聖域”-無戸籍者たちの谷/飢饉に襲われた弘前の地-菅江真澄が通った村/800年前から続く伝説-平家の落人集落と殺人事件/潜伏キリシタンが建てた教会-中通島/飢饉で全滅した三つの村-秋山郷/難破船と”波切騒動”-大王崎/本土決戦における重要拠点-館山湾/古より遊女が集まる場所-青墓宿/江戸時代の大阪にあった墓地群-大阪七墓/自由に立ち入れない場所-津島村。
 大崎下島、夏泊半島、秋山郷には観光で行ったことがある。大崎下島だけは本書にある写真を思い出してかの地の歴史を感じたが、他は全く無縁で単に行ったことがあるとするだけである。
 全体的には著者の感想を中心とした、重みを感じることのない一冊である。風景の中に著者の心象を反映しているだけで、「忘れられたこと」の深層にあまり向き合っていない。

2025年3月12日水曜日

自民党の水脈(?)

 1955年(昭和30年)に自民党は立党し、「党の性格」には「個人の自由、人格の尊厳及び基本的人権の確保が人類進歩の原動力たることを確信して、これをあくまでも尊重擁護し、階級独裁により国民の自由を奪い、人権を抑圧する共産主義、階級社会主義勢力を排撃する」とある。また平成22年(2010年) の自民党綱領には「自立した個人の義務と創意工夫、自由な選択、他への尊重と寛容、共助の精神からなる自由であることを再確認したい」とある。なるほど、それでかの人権侵犯を認定された人を参議院比例区出馬への認定をしたこととどう整合性を論じられるのだろうか。
 首相は「公認の評価は最終的に選挙において有権者に判断いただくべきことがらだ」と述べている。そうではなくて選挙という舞台にあげることの認識が問われていることに応えていない。立党から現在まで、自民党の地下にはどのような「水脈」が流れているのだろうか。
 自民党の「立党宣言・綱領」記載の年号には西暦(和暦)と和暦(西暦)の両方を使用している。統一していないことに何か意味はあるのだろうか。
 民主主義は「second-worst」であると主張していた今は亡き友人のことが思い出される。

2025年3月8日土曜日

Cチャンの公立高校合格

 愛する娘(Mチャン)のその娘、溺愛するCチャンの私立高校合格から1ヶ月以上が過ぎ、今日(3/6)は第1志望の公立高校入試合格発表。Web発表開始時刻直後にMチャンからLINEが入り、合格を直感し、メールを見ると「あなたは、全日制普通科の入学許可候補者となりました」の画像があった。
 Cチャンは受験当日にMチャンとともに我が家に立ち寄り、「合格ラインに届かなかったかも」と言っていた。内申の点数は良いので何とか受かるのではないかと思っていたし、連れ合いは「受かるよ」と言い切っていた。
 倍率が年々高くなっている高校で今年も1.5倍近くになっており、理数科は県内トップの倍率で、そこを落ちた人は普通科に流れてくるだろうとの不安があり、Cチャンは他の高校、といっても偏差値は同程度で入学定員数が多いからそっちに変えようかと受験前には少し悩んでいた。母親であるMチャンも変えない方がいいと思っていた。が、その気持ちの納得を得るために我が家に相談しに来たとき、連れ合いと二人で変えない方がいいとアドバイスしていた。結局は最初の予定通りの高校を受験した。
 合格の連絡をもらってからすぐにLINEを通してCチャン・Mチャン・連れ合いと4人で話をして喜びを分かち合った。嬉しくて仕様がない。60歳差の女の子が春からはJKとなる。卒業祝・私立高校合格祝・公立高校合格祝・入学祝、それに試験前に右手人差し指を小さく骨折していたのでそのうちに完治するであろうお祝い・・・と沢山のお祝いをしてあげよう。本人にもそう言ってあるので、Cチャンにはこれから何を頂戴しようかと大いに悩んでほしい。