2025年6月21日土曜日

駅までお迎え、本、マンガ

 「14時30分ぐらいに春日部駅着くんだけど車で迎えにこれたりする?」とはJK1年のCちゃんからのLINE。心弾ませて「はぁい、行くよ」と返信。
 三者面談で高校の授業は早く終わったし部活もなかったので早い帰りとなり、下校途中で何かを買ったら、バス代のお金がないしお札もなかったとのこと。お迎えに行くのは初めてのことである。嬉しい。
 車のなかで雑談をしていて、「昨日の午後は北千住で飲んでた」と言ったら返ってきた言葉は「ちゃんと帰れた?」だった。最近はないが、飲んだ時は遅くなったり乗り越しをしたりで、スマホで居場所が分かるように彼女の母親から監視できるようにしてあり、その影響もあってそのような言葉になったのであろう。苦笑いするしかない。連れ合いにCちゃんの言葉を教えたら、「よく分かってる」だった。
 車に乗る前にたこ焼きを買いに並んだとき、財布を広げたら千円札が1枚に五千円札が1枚あった。千円1枚では少なかろうと後者をあげたら彼女は「やったー」と喜んでいた。千円札が複数枚あったらそちらにしたのに。彼女は「ラッキー!」と財布に入れていた。夕方娘からのLINEには「Cちゃん、喜んでたよー」、返信は「飲んでなければ何時でも迎えに行くよ」。次はいつになるのやら。

 <三木那由他 『言葉の展望台』(講談社2022年)>:言葉がなければコミュニケーションは成り立たない。言葉は自分の思考や感情を整え深耕するのになくてはならない。そして今、言葉は薄っぺらになり、軽んじられ、暴力化している。一方、言葉で表現するには能力がいるし、不足しているとコミュニケーションが成り立たない。こんなことは70有余年生きていれば厭というほどに経験しているし、能力不足で感情に転写するしかない人も多く見てきた。
 言葉の暴力や差別に露されるLGBTQ+について言及されている。基本的にはその暴力性や差別性としての言葉は論じても仕様がないと思う。なぜならそれは言葉を使う能力ではなくそれ以前の思考を問題にすべきだと思うからである。言葉は思考・性癖などを表現するのであるから、言葉それ自体の使い方を問題にしても仕様がないし、コミュニケーション性を論じても本質を論じることにはならないからである。言葉をゲームとして扱う人間に卑劣さを指摘してもコミュニケーションは成り立たない。ゲームにはルールがあるのにそのルールを認識せずにゲームとしての言葉を弄ぶ輩はそのゲームをプレーする資格はないはずである。

 <高野秀行 『幻獣ムベンベを追え』(集英社文庫、2003年/初刊1989年PHP研究所)>:コンゴ/テレ湖/幻の怪獣モケーレ・ムベンベ、そして早稲田大学探検部。20代前半の学生たちはなんとも逞しく行動力に満ち満ちているのか、何の変哲もなく、生きる幹を中途半端に観念的にしか求めなかった自分の学生時代を振り返ると忸怩たるものがあるのだが、馬齢を重ねた今となってはその感情さえも消そうとしていることに気づく。もうちょっと写真を掲載して欲しかった。

 <瀧音能之・水谷千秋 『古代史の定説を疑う』(宝島新書、2022年)>:天皇史を核とする古代史描写になると関心は急激に薄れる。史料が少ないからやむを得ないとは判ってはいるのだが、その時代に生きた普通の人々への言及がないのはツマラナイ。初代神武天皇は実在したのか、初代大王は崇神天皇だったのか、神功皇后は実在したのか、云々には全く興味はない。それを論じるならば、その歴史を解釈した時々の歴史の方に関心が向く。結局のところ各地に散在する天皇の墳墓の踏査が禁止されている限り古代史の曖昧さは残り続けるであろう。ピラミッドは発掘徴されるが、伝○○天皇の墳墓は触れることを禁じられる。明らかにされることを恐れるが如くに。

 <園山ニ美 『あかい蠢動』(実業之日本社、2025年)>:絵の上手さ、内面的な描写、スゴサを感じ、さらに主な作品が著者の20~23歳に著されたという事実と作品の中にある揺らぎに驚嘆した。26、7年前に刊行された彼女作品を追い求めるにも価格が高く購入は諦める。
 何の知識もなくこの作品集を開いて最初に目を通したのが「複雑屈折」で、その独り舞台の表現と絵と内面的物語に深く惹かれた。

 <岩崎真 『人のために働く 下』(小学館、2025年)><岩崎真 『人のために働く 下』(小学館、2025年)>:最初は、不登校で、働けない主人公の内面描写を読み解こうとしたが、次第に陰鬱な気持ちになってしまう。関心の対象外。

2025年6月14日土曜日

凄麺、麺、何冊かの本

 酒屋さんで会計を済ませて出ようとしたらヤマダイ/ニュータッチ凄麺の幾つかが目に入った。学生時代からインスタントラーメンが好きだったこと、麺をご飯の上に載せて食べることが好きだったことから、この凄麺を衝動買いした。帰宅後にこの凄麺/ご当地シリーズを試したくなった。酒店で何個か買い、数日後バインダーを求めに行った百均ストアでカウンター横に200円で売っていた該シリーズを見つけ、10個ほど購入した。ここまで来ると収集癖病膏肓といった域に入りこみ、ネットでもバラ買いし、結局現在までに購入した数量は24種24個。うち5個はもう食べたので残り19個は食品棚に積み重なっている。数ヶ月以上は楽しめるであろう。因に連れ合いはカップ麺が好きではないので一切口を付けようとしない。

 凄麺以外にも麺が沢山ある。うどんは数年前から徳島から2種類を取り寄せていて、山形のラーメンも2種類あり、喜多方のものも3種類ある。これらは繰り返し宅配してもらっている。蕎麦を除けばラーメン/うどんは十分な量であり、もう年末までは買わなくて済む。たとえ新しい商品が発売されても買わない。

 <稲垣えみ子 『一人飲みで生きていく』(幻冬舎文庫、2025年/初刊2021年)>:一人飲みに挑戦して失敗も重ねる、って言うのは結局一人飲みに何かを求め、何かを得ようとしているのであろう。一人飲みは学生の時(回数は尠い)から何度もやっているが、失敗と感じたことはない(馴染めない心地になったことは何度もある)。今は一人で飲むなら家飲みが一番いい-連れ合いがいるが彼女は飲まないから一人飲みとする-。安く付くし、肴は自分で揃えられるし、何と言っても酔った後は階段で自室に帰ればいい。ということで、今日も昼に、安価で好物のイナダの刺身とワカメの刺身、赤魚の西京漬けを焼き、イカ納豆、モヤシと竹輪の和え物、アサリと小松菜の味噌汁で飲んだ。
 本書に戻って気に入った言葉を幾つか記す。一人飲みと孤食は違う-Yes-。「「何かができる私」ってものに頼っているのである」-いい言葉だとちょっとグサリときた-。「スマホを取り出した途端、あなたは指先一つで世界と繋がることができる。でも、一方で、目の前のものとの繋がりはぷつりと絶えてしまう」-名言-。「一人飲みできる人って、家と会社以外にも、ちゃんと自分の居場所を持っている人です」-Yes、人はどこであろうと、車の中であろうと、トイレの中であろうと、自分の時間を過ごせる自分だけの空間を持つことは重要。このことに類似した言葉を誰かも言っていた-。「一人飲みの極意とは、まず何よりも、頼れるものなど何もないアウェイすぎる状況の中で、孤独に正面から向き合うことだ」-これもまた含蓄あるいい言葉というか自立と自律の到達点でもあろう-。

 <堀元見 『読むだけでグングン頭が良くなる下ネタ大全』(新潮社、2025年)>:時間と空間が広がっていて、出典を明示しており下ネタを真摯に面白く解説している。とても楽しめる。よくぞこれだけ調べ、それぞれの事柄をうまく繋げて解説していると感心する。

2025年6月7日土曜日

長髪化、出生数、黄斑前膜

 長髪化を諦めた。4月の初めから2ヶ月以上伸ばした髪を切った。長髪化は何度かトライしたが、結局はうっとうしくなり途中でやめていた。今度こそはと伸ばしたがやっぱり止めた。いつだったか散髪屋さんで年長の男性が年をとったらキレイでいなくちゃと言っていたことを思い出し、また連れ合いが同じように、年をとったらさっぱりした方がいいと言ったことも長髪化断念の切掛となった。

 2024年の国内での日本人出生数/死亡数/自然増は686,61人/1,605,298人/-919,237人。自分が生れた1949年の出生数/死亡数/自然増は2,696,638人/945,444人/1,751,194人だった。数字の変動の大きさに今更ながら驚いてしまう。学校が統廃合し、地方大学の定員割れも得心がいく。息子の知人である弘前大学の教員が、学生の質がとても落ちていると言っていたと聞いた。然もありなん。

 右目で見ると物が大きく見える。黄斑変性症が進んだのかと思い徒歩で5分も要しない眼科クリニックに足を運んだ。午前中と違って午後は比較的混雑は緩和されている。
 CT検査の結果、左目はとてもキレイな状態で、右目は軽度の黄斑前膜症で若干の白内障も認められ、経過観察の頻度を増やすこととし、3ヶ月後に眼底検査をしましょうと、暗い寝室でありマスク越しだが(多分)美しい女医さんの診断。6年前からは然程進行していないとのことであった。確かに柱などの垂直なものを見たときの僅かな歪みは以前から変わらないようである。6年前にも半年ごとに経過観察しましょうと言われていたが、コロナ禍もあり、足は遠のいていた。
 加齢も華麗であればいいのだが、如何せん肉体の衰えはどうしようもない。