三者面談で高校の授業は早く終わったし部活もなかったので早い帰りとなり、下校途中で何かを買ったら、バス代のお金がないしお札もなかったとのこと。お迎えに行くのは初めてのことである。嬉しい。
車のなかで雑談をしていて、「昨日の午後は北千住で飲んでた」と言ったら返ってきた言葉は「ちゃんと帰れた?」だった。最近はないが、飲んだ時は遅くなったり乗り越しをしたりで、スマホで居場所が分かるように彼女の母親から監視できるようにしてあり、その影響もあってそのような言葉になったのであろう。苦笑いするしかない。連れ合いにCちゃんの言葉を教えたら、「よく分かってる」だった。
車に乗る前にたこ焼きを買いに並んだとき、財布を広げたら千円札が1枚に五千円札が1枚あった。千円1枚では少なかろうと後者をあげたら彼女は「やったー」と喜んでいた。千円札が複数枚あったらそちらにしたのに。彼女は「ラッキー!」と財布に入れていた。夕方娘からのLINEには「Cちゃん、喜んでたよー」、返信は「飲んでなければ何時でも迎えに行くよ」。次はいつになるのやら。
<三木那由他 『言葉の展望台』(講談社2022年)>:言葉がなければコミュニケーションは成り立たない。言葉は自分の思考や感情を整え深耕するのになくてはならない。そして今、言葉は薄っぺらになり、軽んじられ、暴力化している。一方、言葉で表現するには能力がいるし、不足しているとコミュニケーションが成り立たない。こんなことは70有余年生きていれば厭というほどに経験しているし、能力不足で感情に転写するしかない人も多く見てきた。
言葉の暴力や差別に露されるLGBTQ+について言及されている。基本的にはその暴力性や差別性としての言葉は論じても仕様がないと思う。なぜならそれは言葉を使う能力ではなくそれ以前の思考を問題にすべきだと思うからである。言葉は思考・性癖などを表現するのであるから、言葉それ自体の使い方を問題にしても仕様がないし、コミュニケーション性を論じても本質を論じることにはならないからである。言葉をゲームとして扱う人間に卑劣さを指摘してもコミュニケーションは成り立たない。ゲームにはルールがあるのにそのルールを認識せずにゲームとしての言葉を弄ぶ輩はそのゲームをプレーする資格はないはずである。
<高野秀行 『幻獣ムベンベを追え』(集英社文庫、2003年/初刊1989年PHP研究所)>:コンゴ/テレ湖/幻の怪獣モケーレ・ムベンベ、そして早稲田大学探検部。20代前半の学生たちはなんとも逞しく行動力に満ち満ちているのか、何の変哲もなく、生きる幹を中途半端に観念的にしか求めなかった自分の学生時代を振り返ると忸怩たるものがあるのだが、馬齢を重ねた今となってはその感情さえも消そうとしていることに気づく。もうちょっと写真を掲載して欲しかった。
<瀧音能之・水谷千秋 『古代史の定説を疑う』(宝島新書、2022年)>:天皇史を核とする古代史描写になると関心は急激に薄れる。史料が少ないからやむを得ないとは判ってはいるのだが、その時代に生きた普通の人々への言及がないのはツマラナイ。初代神武天皇は実在したのか、初代大王は崇神天皇だったのか、神功皇后は実在したのか、云々には全く興味はない。それを論じるならば、その歴史を解釈した時々の歴史の方に関心が向く。結局のところ各地に散在する天皇の墳墓の踏査が禁止されている限り古代史の曖昧さは残り続けるであろう。ピラミッドは発掘徴されるが、伝○○天皇の墳墓は触れることを禁じられる。明らかにされることを恐れるが如くに。
<園山ニ美 『あかい蠢動』(実業之日本社、2025年)>:絵の上手さ、内面的な描写、スゴサを感じ、さらに主な作品が著者の20~23歳に著されたという事実と作品の中にある揺らぎに驚嘆した。26、7年前に刊行された彼女作品を追い求めるにも価格が高く購入は諦める。
何の知識もなくこの作品集を開いて最初に目を通したのが「複雑屈折」で、その独り舞台の表現と絵と内面的物語に深く惹かれた。
<岩崎真 『人のために働く 下』(小学館、2025年)><岩崎真 『人のために働く 下』(小学館、2025年)>:最初は、不登校で、働けない主人公の内面描写を読み解こうとしたが、次第に陰鬱な気持ちになってしまう。関心の対象外。
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