2025年7月2日水曜日

心エコー、ウォーキング、本

 6月末日、市立医療センターにて1年1回の心エコー診察。昨年と比べて変化が全くないのでオーケーとのこと。動悸や息切れ、ふらつきや立ちくらみがないことを確認され、1年後にはまた検査をしましょう、お待ちしていますと仰る女医さんには少しばかり昵懇の飲み屋さんに通うような自分の姿が瞬時頭に浮かんだ。

 2週間前の夕方からウォーキングマシンで40分ほど歩き汗を出している。時間や距離を見ながらただ歩き続けるのは苦痛なので、目の前にポータブルBDプレーヤーを設置し、数十年前から録画してDVD/BDにしてある早稲田のラグビーを観戦しながら退屈せずに続けられている。東芝に勝った日本選手権から始まり、堀越や清宮、今泉に五郎丸、矢富に曽我部など秩父宮や国立競技場で観戦した記憶が蘇り楽しめる。

 <伊与原新 『月まで三キロ』(新潮文庫、2021年/初刊2018年)>:頁を開き読み始めると地下水が湧き出てくるような既読感がある。そう、5年前に新刊で読んでいた。そのときの読後感を読み返すと湧水が波紋のように水面に波打った。文庫本のために編まれた2編、「特別掌編 新参者の富士」と逢坂剛との対談「馬力がある小説」が巻末に付されている。
 「新参者の富士」、上手い小説だと思う。でも自分は、富士山は登るものではなく遠くから眺めるものと嘯いているから、しっくりしない気持ちが出た。それは多分、人生は人それぞれに違っていて、その違いを物語に編むことに感動を受けることがなくなっているからではないだろうか。富士山に何かを求め、その求めている心を描写する「小説技術」に飽いているのかもしれない。人それぞれの人生に何か共通なものがあると捉えそれを汲出すことが小説ならば、そんなことはどうでもいい、勝手に富士山に登って己を見つけ、気づけばいい、それを小説にすればいい。オレは富士山を遠くから眺めることで眺めている自分を見つめていればいい。そんな突き放した気持ちを感じることもある。
 人生を語らずに単純なゲームを描き出すような小説で十分である(かもしれない)。テレビでのホームドラマは嫌いだし、恋愛や失恋のドラマは見たいと思わないし、昔よく流れていた何とかミステリー劇場のような安易さが今は楽しめる。 逢坂剛の小説は15年間読んでいない。初期の作品が懐かしい。

 <川名壮志 『酒鬼薔薇聖斗は更生したのか』(新潮新書、2025年)>:書名から想像するに、28年前の神戸連続児童殺傷事件の少年Aがその後更生したのかという内容が中核をなすルポかと思ったが、ここでの「酒鬼薔薇聖斗」は少年犯罪の一般化された「少年A」を意味する。論じられるのは「少年」の法的・社会的意味、再犯と更生、「更正」ではなく「更生」であることの意味、等々で論点は発散気味である。それだけに「少年犯罪」という捉え方と「少年法」は理解に困難を伴う。
 「「加害少年たちは、要するに犬なんだよ。かまれたとしても、犬に責任なんて取れない。もうかまないようにしつけるしかない。被害者はかまれ損。深手を負わされても『災難でしたね』で済まされてしまう」」「しかし立ち返ってみると、否定はできないのだ」。残酷な言葉であり、「しつける」ということの意味の難しさを感じる。
 「法律には「更生」の定義はない」し、「国が更生のために、絶対に必要だとする条件」は「再犯をしないこと」。
 同時代史的に振り返ると、11歳との時に山口ニ矢の事件があり、あの有名な写真はその後何度も目にした。同年の永山則夫は19歳で殺人を犯し、20歳で逮捕され、41歳で死刑が確定し、48歳で刑死した。悲惨であった彼の幼年少年時代に思いを馳せるもその内面は分かるはずもない。19歳の少年時に逮捕され、その後囚われの中で更に生き続け、再犯していないからその意味では「更生している」。
 法律には人を殺してはいけないとは規定されていない。人を殺せばそれ相応の刑罰を受けることが明文化されている。とするならば、刑罰を受けることを受容している人間に人を殺すことを禁じることは難しい。「少年法」で裁かれないことを熟知している少年に犯罪は抑止できるかというとそれも難しい。そういう連中に絡まれた人にすれば結局は「嚼まれ損」なのか。

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