2025年7月23日水曜日

参議院選挙が終わった

 参議院選挙が終わった。排外主義・差別的と捉えられる主張が外国人問題と一括りにされて繰り返し報道されている。参政党支持者あるいは参政党員と思しき中年女性がインタビューに答えていた。「日本なんだから日本人を一番に考えるのは当たり前ですよね」と「日本人ファースト」をさらりと口にし、反対する声もありますとの質問には、それは日本人じゃない人がそう言っているのでしょうとも言っていた。違和感が強い。
 多くの報道があるなかで、「日本人とは?」という問いが全く出ないことに何故なんだろうと疑問を抱いている。この問いに答えることはとても難しいことで、たとえ日本国籍を有していても容姿や言葉や出生地を根拠にして「外人」「在日○人」という枠の中に押し込むし、日本に住んでいる人を日本人と定義してもそれには無理がある。日本文化をキチンと理解している人とすれば、実は一番理解している人は客観的に眺められる外国人かもしれない。日本文化の特徴は(良くも悪くも)「融通無碍」にあるとの指摘もあり、それは排外的な態度と対極にある。となれば地理的・精神的に「排外」したがる人を日本人と定義することも可能と思える。
 「日本人とは」を考えるとき、28年前に読んだ野村進さんの『コリアン世界の旅』を必ず思い出す。そこでは、日本人とは日本に住んでいて自分は何人だと考えない人だ、という意味の言葉を在日コリアンの人が語っていた。今は、日本に住んでいて“日本人”を感情の中に深く浸すことで自己の精神的安住の地を感じ取る人と言えるような気もする。
 前掲した野村さんの前著には次の描写がある。すなわち、「民族の定義とは、(概念規定をするとどうしてもある部分を切り捨てることになるので)”自分に連なる一切を否定しないこと”」。「こだわること、そしてこだわりながら他者を受けとめていく視点と感性を持つこと」。大事にしている言葉である。

2025年7月17日木曜日

本を売る、小説2冊と漫画

 読んだ本を5ヶ月ぶりに引き取ってもらった。キャンペーン中だったので予想よりも高くなり新刊の単行本なら3~4冊、スコッチウィスキーなら2本くらいは買えるかな、という金額。

 <逢坂冬馬 『ブレイクショットの軌跡』(早川書房、2025年)>:ブレイクショットはSUVの商品名、およびビリヤードでのラックを崩す最初のショット。577頁の長編小説。ブレイクショット組み立て現場でのプロローグから始まり、「アフリカのホワイトハウス」(ホワイトハウスはブレイクショットで車体には日本の会社のロゴがある)に移り、本章とも言える日本でのブレイクショットの所有者の変遷が編まれる。本章とアフリカでの物語が交互に描かれる。プロローグからエピローグまで表層的には交わらない人生模様がブレイクショットを通じて全てが繋がっている。投資ブログ、SNS、LGBTQ、パターナリズム等々の現代の世相を編み込み、読んでいて何という優れたストーリー構成なのだという驚きがあって、前2作とは異なる著者の小説世界に感嘆した。が、物語の最後の括り方がどうしても安易に感じてしまい、ある種の、いい意味での、しこりのような余韻が残らない。でも今年になって最も楽しめた小説であった。

 <さそうあきら 『絵師ムネチカ①』(双葉社、2025年)><同 『絵師ムネチカ②』(同)>:著者の絵を見るのは『マエストロ』以来で17年振り。四六時中絵を描く特異な少年とそれを取り巻くフツーの人々とミステリーっぽさに惹かれる。

 <王谷晶 『ババヤガの夜』(河出文庫、2023年/初刊2020年)>:日本人作家として初の英国推理協会賞(ダガー賞)受賞作、2021年の日本推理作家協会賞長編部門の最終候補作。ネットによれば、ババヤガとはスラヴ民話に登場する魔女であり、また、映画「ジョン・ウィック」のジョン・ウィックが「ババヤガ」という異名で呼ばれることから、伝説の殺し屋を指す言葉としても知られています、とのこと。ここに描かれる暴力性には驚かさされるとともに、仕掛けにはあっそうという感想しかない。また、何故にこの小説が英国で絶賛されるのか分からない。この小説の惹句になっている「シスターフッド」が描き切れているのだろうか、それが深い意味の言葉とすれば、この小説では水面の波紋しか表現できていなくて深みに入っていく感が薄い。
 描かれる暴力性はホラーのような気持ち悪さがあって、それでも引き込まれて読み続けたが、最後は都合よくまとめたな、という感が強い。前文の繰り返しになるが、立場の違う依子と尚子の結びつきの内実が描写されていなくて隔靴掻痒、消化不良、まずくはないけど惰性で完食した・・などという場末の飲み屋のような落ち着きのない感覚が残った。在日朝鮮人らしき柳のそれまでのストーリーも余りにも簡単で結局は登場人物の内面描写がなさすぎる。もしもこれが映画やドラマになっても見もしない。結論は、今話題になっているし、すぐに買い求めたがその先走った気持ちとは裏腹につまらなかった。

2025年7月5日土曜日

雑記:EWI/参院選/ラグビー/帯状疱疹ワクチン接種

 EWIでYou've Got a Friendを練習している。リズムを上手くとれないでいる。Carole King、James Taylor、Southern Raisedが歌うそれぞれの曲からバッキングトラックを作り、彼/彼女たちの歌に合せて演奏しようとするのだがいずれも歌い方に個性があってスコアにそってメロディーを流せない。リズムを取るために(バンドプロデューサー5を利用して)原曲にメトロノームの音を重ねそれを録音し、原曲と時間的に合致させるために録音データを編集し、それをバッキングにして何とかスコアを追うことが少しはできてきている、という体たらくというか未熟さ。諦めるのが嫌だからと練習開始からもう2週間以上経つもまだ自録できていない。

 参院選が公示された。比例区届け出政党は16政党あり、うち日本○○の政党名は5政党ある。内向きの国内の政党ならばあえて日本なる冠は不要な気もするが、これは小さな運動会でも大運動会、小さな会合でも大会とすることと同傾向なのか。
 目を引いた政党と候補者を記す。弁護士の北村晴男が百田と有本の日本保守党から出馬、へぇ~と思ったのが第一印象。蓮舫は古巣の立憲から、どれほど個人票を集めるのだろうか、都知事選でピークは過ぎていると思う。後藤翔太が参政党から。参政党の勢いに乗りラグビーの人気があるところで遊説すればもしかしたら当選するかも。蓮池透さんがれいわ新選組から、なんか分かるような気がする。ラサール石井が社会民主党から出ている。社民党の中では一番得票するかも。しかし、「ミサイルよりくらし」というスローガンはどれくらい投票者に響くのであろうか疑問。岸博幸が自由民主党から。自民党の候補者にはあの杉田水脈や鈴木宗男もいるし、ご老体山東昭子もいるし、コロナでテレビによく出ていた釜萢敏もいる。今日(7/5)の朝日新聞では自公は過半数微妙とある。
 選挙区に目を向ければマスコミを騒がした山尾志桜里が東京にて出馬したがまあ無理だろう。世良公則が大阪で出ている(無所属)。兵庫県では泉房穂と立花孝志が全国的に名を知られているが、候補者13人の中から定員3人の中に入るのは誰になるのだろうか。また、NHK党は全選挙区から候補者を出しており、他には聞いたこともない、知りもしなかった政党も少なくない。
 と言いつつも、地方選挙から国政選挙まで50年間選挙には出向いていない。今回も投票権はもう形を失っている。

 これを書きながら日本vsウェールズのラグビーを見ていた。後半に入り7-19を逆転して24-19で勝利した。マイケル=リーチはやはり卓越したプレーヤーであるとの感を強くした。ウェールズは後半になって動きが鈍くなっていたように思えるし、スポーツサイトで見るとウェールズはテストマッチ18連敗になったとのことなので、まだ力が発揮できない準備期間でいるのかもしれない。
 そして、FB矢崎はどうなっているんだろうか、日本代表戦にも出ていないし、早稲田の一員としての試合も今年の大学選手権決勝以来登場していない。怪我なのか、ネットで見ても情報がない。

 2回目の帯状疱疹ワクチンを接種した。連れ合い二人で合計88,000円と高価。前回に比して副作用が激しい。肩が上がらないのはしようがないとしても夜20時半頃から激しい悪寒が走る。春先のような長袖のシャツとパンツをはき、ベッドに入り布団にくるまり、水を飲むせいか何度もトイレに行き、悪寒が弱まっても身体が気怠い。結局ベッドに13時間ほど入ったままだった。起きても体調は万全ではなく軽い頭痛もする。なんとかいつものような体調に戻ったのは昼過ぎて暫く経ってからのことだった。一方、連れ合いは頭痛と悪寒とかったるさが激しく、副作用がなくなるには2日間ほど要するようである。でもこれで帯状疱疹罹患の心配がなくなるとすれば安心する。

2025年7月2日水曜日

心エコー、ウォーキング、本

 6月末日、市立医療センターにて1年1回の心エコー診察。昨年と比べて変化が全くないのでオーケーとのこと。動悸や息切れ、ふらつきや立ちくらみがないことを確認され、1年後にはまた検査をしましょう、お待ちしていますと仰る女医さんには少しばかり昵懇の飲み屋さんに通うような自分の姿が瞬時頭に浮かんだ。

 2週間前の夕方からウォーキングマシンで40分ほど歩き汗を出している。時間や距離を見ながらただ歩き続けるのは苦痛なので、目の前にポータブルBDプレーヤーを設置し、数十年前から録画してDVD/BDにしてある早稲田のラグビーを観戦しながら退屈せずに続けられている。東芝に勝った日本選手権から始まり、堀越や清宮、今泉に五郎丸、矢富に曽我部など秩父宮や国立競技場で観戦した記憶が蘇り楽しめる。

 <伊与原新 『月まで三キロ』(新潮文庫、2021年/初刊2018年)>:頁を開き読み始めると地下水が湧き出てくるような既読感がある。そう、5年前に新刊で読んでいた。そのときの読後感を読み返すと湧水が波紋のように水面に波打った。文庫本のために編まれた2編、「特別掌編 新参者の富士」と逢坂剛との対談「馬力がある小説」が巻末に付されている。
 「新参者の富士」、上手い小説だと思う。でも自分は、富士山は登るものではなく遠くから眺めるものと嘯いているから、しっくりしない気持ちが出た。それは多分、人生は人それぞれに違っていて、その違いを物語に編むことに感動を受けることがなくなっているからではないだろうか。富士山に何かを求め、その求めている心を描写する「小説技術」に飽いているのかもしれない。人それぞれの人生に何か共通なものがあると捉えそれを汲出すことが小説ならば、そんなことはどうでもいい、勝手に富士山に登って己を見つけ、気づけばいい、それを小説にすればいい。オレは富士山を遠くから眺めることで眺めている自分を見つめていればいい。そんな突き放した気持ちを感じることもある。
 人生を語らずに単純なゲームを描き出すような小説で十分である(かもしれない)。テレビでのホームドラマは嫌いだし、恋愛や失恋のドラマは見たいと思わないし、昔よく流れていた何とかミステリー劇場のような安易さが今は楽しめる。 逢坂剛の小説は15年間読んでいない。初期の作品が懐かしい。

 <川名壮志 『酒鬼薔薇聖斗は更生したのか』(新潮新書、2025年)>:書名から想像するに、28年前の神戸連続児童殺傷事件の少年Aがその後更生したのかという内容が中核をなすルポかと思ったが、ここでの「酒鬼薔薇聖斗」は少年犯罪の一般化された「少年A」を意味する。論じられるのは「少年」の法的・社会的意味、再犯と更生、「更正」ではなく「更生」であることの意味、等々で論点は発散気味である。それだけに「少年犯罪」という捉え方と「少年法」は理解に困難を伴う。
 「「加害少年たちは、要するに犬なんだよ。かまれたとしても、犬に責任なんて取れない。もうかまないようにしつけるしかない。被害者はかまれ損。深手を負わされても『災難でしたね』で済まされてしまう」」「しかし立ち返ってみると、否定はできないのだ」。残酷な言葉であり、「しつける」ということの意味の難しさを感じる。
 「法律には「更生」の定義はない」し、「国が更生のために、絶対に必要だとする条件」は「再犯をしないこと」。
 同時代史的に振り返ると、11歳との時に山口ニ矢の事件があり、あの有名な写真はその後何度も目にした。同年の永山則夫は19歳で殺人を犯し、20歳で逮捕され、41歳で死刑が確定し、48歳で刑死した。悲惨であった彼の幼年少年時代に思いを馳せるもその内面は分かるはずもない。19歳の少年時に逮捕され、その後囚われの中で更に生き続け、再犯していないからその意味では「更生している」。
 法律には人を殺してはいけないとは規定されていない。人を殺せばそれ相応の刑罰を受けることが明文化されている。とするならば、刑罰を受けることを受容している人間に人を殺すことを禁じることは難しい。「少年法」で裁かれないことを熟知している少年に犯罪は抑止できるかというとそれも難しい。そういう連中に絡まれた人にすれば結局は「嚼まれ損」なのか。