2024年9月26日木曜日

体調不良、永井さんの小説、『未完のファシズム』、『五色の虹 満州建国大学卒業生たちの戦後』

 久しぶりに体調をくずした。最初は数日続いた喉の痛み、それからは咳。多分クーラーで身体を冷しすぎたことが切掛になったと思っている。
 今日で6日となる。市販の薬を飲んでいたが一向に良くならない、特にベッドの入っては断続的に咳き込むので睡眠不足、ボーっとした日が重なっている。さすがにこれはまずいと、かかりつけの内科(呼吸器内科)に行こうとするが、今日木曜には休診日。一般内科も診察する、家から数分の徒歩でいける医院に行くこととする。

 本の買い取りを依頼し、古い本も多いのでwebで確認できる見積もり額の6割ぐらいが実際の引き取り額であろうと思っていた。が、予想に反して1万円を超えた査定額となった。

 <永井義男 『秘剣の名医 十七』(コスミック・時代文庫)>:もうシリーズ17冊目になるのか。初刊が2018年だから1年当たり3冊と多作である。
 沢村伊織は八丁堀に居を移し、土中に浅く埋められた男の白骨と、女の木乃伊化した遺体の探索から本編がスタートする。そのミステリーに重なって女が投身自殺したと思しき事件に展開し、新たな謎ときがすすむ。新しく女岡っ引きのお蝶が登場する。

 <片山杜秀 『未完のファシズム 「持たざる国」日本の運命』(新潮選書、2012年)>:戦前思想の流れを追いかけるのはもうやめにしようかと思う。倦きてくるほどに詳しい訳ではない。しかし、類似した本を読めば、そこに通底している(戦前)日本の狂気を再確認し、新たな異なる視点を感じることはなくウンザリしてくるのである。
 本書にて解説される中柴末純は初めて知った。そしてその思想が「玉砕こそが軍上層部による見事な作戦指導である」、「国民みんなが喜んで死ぬ。そんな国があってよいものか。しかし、これで「持てる国」も怖じけづく。「持たざる国」にも勝ち目が出る。「金よりも体をつかってなんとかやってゆく」態度が、「中柴によって究極的に推し進められた」、とあり、この人が東条英機のブレーンを務め、少将まで上り詰めている。
 日本という國體に日本全体が浸潤され、世界に向かって攻め進み、拳を振り上げたことに事後的に正当化を捏ねくり、次には挙げた拳を維持するための理屈を築きあげる。どう考えても論理的には破綻している。
 「持たざる国」が「持てる国」と戦うには、「短期決戦」「包囲殲滅戦」、「側面攻撃」等々であり、兵隊や兵器・武器が足りなくて当り前で、それで戦うのが日本であるとされ、従って日本軍の兵站戦略のないことにも繋がっている。その骨格は昭和三年頃に『統帥綱領』改訂で顕れ、後の歴史にとてつもない事態を招来してゆくようになった。
 読み終わって簡単なこの読後感を書いているとため息が出てくる。異常な時代であったと。その血脈は地下深く現代にも流れている。

 <三浦英之 『五色の虹 満州建国大学卒業生たちの戦後』(集英社文庫、2017年/初刊2015年)>:1938年から1945年までに存在していた満州国の大学。五族協和を謳うが結局は傀儡政権国家における日本が統治する大学。優秀な学生が集まったのは事実であるがそれは偏に全額国費で給与まで支給されたからである。日本初の国際大学で五族協和を謳うが、板垣征四郎や石原莞爾、辻政信、平泉澄、東条英機等が設立に関与している一面を見るだけでこの大学ありようは想像がつく。入試も講義も日本語で、各民族の優秀な学者を教授陣に迎えるはずが実際は9割方は日本人。言論が自由で、自由闊達な議論を支わすのは日常的であった。国内での目にすることが出来なかった共産主義などの書物もあった。しかし、途中から(治安維持法施工あたりヵ)からは神道の教育もあり、朝は東方遥拝からはじまった。
 傀儡国家に建設された大学の中身はどうであれ、本書に描かれているかつての学生たちの戦後は、波瀾万丈としか言い様がなく、そこにはかつての日本憲兵に翻弄される人たち、現中国政府の異常な監視体制下での沈黙、等々、各地で生きていたかつての建国大学生たちの一つ一つの人生ドラマがある。
 そして民族に関係なく卒業生たちの結びつきが固いことに、それを築きあげる環境があったことに、新鮮な驚きがあった。

2024年9月20日金曜日

小説一冊と講談社メチエ一冊

 20日、大谷が6打数6安打10打点4得点-3本塁打2二塁打1単打2盗塁で51-51となった。驚いた。生きている間に大谷の記録を超えるニュースに触れることはないのではないか、とさえ思える。

 <真保裕一 『共犯の畔』(朝日新聞出版、2024年)>:舞台は群馬県鈴の宮ダム。建設と中止を繰り返し、計画からダム完成まで68年を有した八ッ場ダムをヒントにしている。群馬県といえば福田・仲曽根、安部応援団だった山本知事、オブツと揶揄された小淵の娘のPC破壊行為、そして八ッ場ダムといえば前原の顔が思い出される。
 そのダム建設の推進派と反対派の町長選挙を巡る地元の動きと、政党から派遣された職員の活動をメインに、まずは序曲といった風に昔の情勢を描く。冒頭の誘拐事件とどう結びつけるのかが読んでいて気になる点だが、やがて誘拐監禁の現在に至ってその動機、犯罪に名を借りた真相解明の動きが明らかになっていく。そこには真摯な弁護活動に勤しむ弁護士の行為と葛藤も入り交じる。
 最終章になり、犯行に及んだ若者たちと被害者を装う秘書の彼らの連携がはっきりとする。その最終章に到っては「共犯」とは誰を指すのか、犯罪の畔に潜む者たちへの糾弾が描かれる。その場面は著者の、政治やマスコミ、国民(民衆)たちへの認識が描写されていると思い、この作者の作品を読み続けている我が身からすれば、改めて作者への親近を感じた。

 <植村和秀 『昭和の思想』(講談社選書メチエ、2010年)>:丸山真男・平泉澄を「理の軸」の左右におき、西田幾多郎・蓑田胸喜を「気の軸」の上下(ポジティブ/ネガティブ)に位置させ、「昭和の思想を包括的に俯瞰」して論考する。
 仏壇と神棚を普通に併存して重複し、絡み合っている日本人には複数の異質な考えがあるのではないかという主張には首肯する。そこに十字架がかけられれば尚更である。短絡的に言えば日本人のある種の美徳とも言われる融通無碍、あるいは優柔不断(曖昧)にも繋がる。
 幕末・維新を経て西欧に並ばんと背伸びしていた明治期に区切りをつけ、背伸びが弛緩した大正期を経て昭和に入った頃、江戸期を生きてきた人たちが前線から引退し、かつての日本という文化(雰囲気)は人為的に構築するしかなく、それは恰も生ものを干物に作るように加工する作業だった。これは本書に書かれていることにプラスした、単なる私の私感というか持論である。
 丸山真男については幾つかのテキストを読み、「古層」「執拗低音」が深く印象づけられ、頭に浅く残っている。平泉は頑固一徹の皇国史観歴史学者で戦後は福井の実家の神社に帰り、後に東京で国史研究を続けたという知識しか持ち合わせていない。西田幾多郎については名前を知ってはいてもその哲学は分かっていない。
 本書で精読したのは蓑田胸喜に関する論考。本書でも指摘していることだが、蓑田に関して自分は次の捉え方をしている。すなわち、蓑田は、かつての紅衛兵(および同調して毛沢東語録を持っていた高校同級生と社会的ブーム)、ネトウヨ(右翼ではなくネットに群がるバカども)、一側面での三島由紀夫の言動、などに類似性を見ている。
 蓑田が「違和感を持つ思想や学問」を「徹底的に否定」するのは、「自分を守り日本を守るため」であり、「他者の存在自体が、蓑田には攻撃と感じられ、それはすなわち、日本への攻撃であると信じるから」であり、「他者の言葉が自己の内面を拘束せんとすることへの拒否であり、自己の内面を保護せんとするための過敏すぎる反応なのかもしれ」ないと著者は指摘する。「とにかく蓑田は、原理日本の信仰に執着して、勝手に敵と断定した相手を責め続ける」。蓑田の「拒否反応は、蓑田の内面に由来して」おり、「蓑田が自己の内面を語らなければ、相手には理解不能なはず」だが、「自己の内面を語ることは、自己の内面を自己の言葉によって拘束することにな」るので、「そのため葦田は、他者を責め続けて、自己を表現するしかない」。
 著者の分析はとても分かりやすい。現在SNS等で他者を執拗に攻撃するのは、攻撃することでしか自己表現ができないのであろう。自分の思考の内面を語ればその言葉によって自己を狭い領域に閉じ込めてしまい、そこをターゲットにした批判・攻撃は自己に向けられ、保護されなくなる。それを回避して自己正当化するには、自己を語らずに他者を一方的に攻撃批判し、その行為によってしか自己表現できなくなっている。従って蓑田的人間はネガティブな批判や攻撃をするしかない。蓑田は「私生活では善良な家庭人であり、小心な苦労家で」、「また金銭に潔癖で、地位や肩書にも恋々とし」ない人であった。蓑田の「同志たちは、友はひたすらにほめ、敵はひたすらに弾劾する仲間たち」だった。これらの指摘は、マスコミにて語られるネトウヨ的人間のプロファイルに似通っている側面があると感じ取ることができる。

2024年9月17日火曜日

本を売る、随分前に購入した本4冊を読む

 5ヶ月ぶりに本の買い取りを申し込んだ。今回は読んだ本以外に読むのを止めた本も含めたので、段ボール2箱の合計74冊と多くなった。古い本が多いので大した金額にはならないであろうし、見積査定額が10円のものも多く、中には0(ゼロ)円の本もある。

 <小川原正道 『近代日本の戦争と宗教』(講談社選書メチエ、2010年)>:戊辰戦争・台湾出兵・西南戦争・日清戦争・日露戦争、各時代における宗教の関わりを論じる。
 明治においてそれまでの宗教のあり方のベクトルが大きく変わった。本書で知った真宗の「真俗二諦論」は、端的に言うならば、時の政府に追従し忖度し、詭弁を弄しているとしか捉えられない。その詭弁は現代のいろいろな場面で観察される個人や組織の言動に本質的に繋がっている。最近はもう、それらは人間社会の持つ本能であろうとも考える。そう思うと明治期における戦争と宗教の関係はその社会的本能が近代という括りに顕れた特殊でも何でも無い現象なのであろうとさえ思える。

 <三枝充悳 『インド仏教思想史』(講談社学術文庫、2013年/初刊1975年第三文明社)>:歴史の流れとしてよりも仏教思想の解説書としてのほうに関心が深く、また勉強になった。理解の程度はともかくも仏教用語は殆ど目にしたことがあるので、改めてその内容を理解しようとして読んだ。仏教は中国からの輸入であり、中国に伝わる前のインドにはもっと違ったインド独特の仏教思想があると感じていた。だから本書で読んだインド仏教思想がいまの日本仏教にも直結すると分かったことに対して、自分の勉強不足と無理解と思い違いに恥じ入った。そもそも本書出だしのアーリア人に関しても何も分かっていなかった。
 軽い気持ちで関心を抱いて本書を購入したが積ん読状態にあった。ちゃんと読んでおくべきだった-こういう状態になっている本が自室に多すぎる。

 <小浜逸郎 『なぜ人を殺してはいけないのか 新しい倫理学のために』(洋泉社、2000年)>:75年も生きてきて何を今更ではある。「なぜ人を殺してはいけないのか」、法律で禁止されているから、あるいは、そんなこと人に訊くな自分で考えろ、というのが今の率直な思い。
 「「本当の私」を探すことの不毛性」で著者は「間違いは、今の自分が、すべて本来の自分自身とは無縁な仮面(にせ)だと思い込んでしまうところから始まる」と書いている。その項をみて15年ほど前の読書メモを思いだした。それは『地球を抱いて眠る』(駒沢敏器)を読んだときに著者が書いている言葉である。すなわち、「自分探しをし、癒しを求める人たちが描かれているが、彼らは多分に自己中心で他者が見えなくなっているという感が強い」。その言葉には同感する。

 <阿満利麿 『宗教は国家を超えられるか 近代日本の検証』(ちくま学芸文庫、2005年/初刊「国家主義を超える」1994年)>:現実をみれば「宗教は国家を超えられない」であろう。そして、「国家と正面から対決し、国家に対して独自のスタンスを確立することができない宗教は、普遍的宗教とはいいがたい」(あとがき)であろう。
 自分にとって、個々の思想家の思想がどうで、それが国家社会にどう影響を及ぼしてきたであろうか、ということには関心は低い。関心が強いのは、この国の社会文化(本書で言うフォーク)がどのような歴史的な経緯を経て現代に繋がっているのだろうかということ。例えば、桜のイメージと散華、現生主義、ハレとケ、国家による宗教の分断、等々と天皇との関係性などである。
 宗教は個々人の生活の中で必須とは考えていない、同時に特定の宗教宗派を-それがどのようなものであっても-勧誘する行為にはある種の嫌悪感を持っている。この社会に対峙する自分の立場を、たとえそれが客観的に見てつまらないことであっても自分で見いだすこと、探し続けることが重要と思っている。風呂敷を拡げればその経過・結果が自分にとっての宗教ではなかろうかと考える。
 積ん読、あるいは読みかけては途中で投げ出していた本をいまになって読んでいる。ちゃんと読んでおくべきだったとの後悔と反省とともに。

2024年9月16日月曜日

採決検査結果、対抗戦ラグビー、PCのヒンジ破損

 8月に採血した検査結果が出た。多分10数年ぶりになるのだろう、コレステロールが正常値の範囲に入り、すべてに異常値がなかった。嬉しくなって病院から帰宅後に飲んだ。

 大学ラグビーがスタートした。早稲田の初戦は立教。出だしは立教の闘志ある早い出足に押されてもいたが徐々にトライを重ねるようになり、結果は57(9T6G)-6(6PG)。日本代表の矢崎が4Tと活躍し、ラインへの参加、早さ、等々やはり数段も上である。トライをとってもPOMでのスピーチでも一切ニコリともせずにいたのが印象に残る。思うに、大田尾監督は自由にやらせているのいではなかろうか。
 1年の服部(SO)を見られて良かった。終了近くに担架で運ばれた選手(粟飯原か)の負傷具合が気になる。
 ジュニアB戦で早稲田が帝京に勝利。思い入れも含めてであるが早稲田は層が厚くなってきている(ような気がする)。

 接戦となることの多い筑波vs慶応戦をオンデマンドで観戦。キックオフから暫くは均衡すると思われたが筑波が徐々に引き離して勝利。両校とも軽いプレーで力強さを感じなかった。対抗戦グループは早稲田・明治・帝京の3強に少し差があって筑波・慶応となるか。立教・青学あたりが慶応に勝利すると面白いのだが。

 1Fで使用しているNote PC、“DELL Inspiron 15 3250“の右側ヒンジ部がバリバリと音がして破損。数年前に別メーカーのNote PCの右側ヒンジ部が破損してネジ止めして修復したことがあり、これで2度目。今回も右側の破損であるのは右手での開閉動作のせいであろう。
 主に機械設計で給与を得てきた経験から言えば、PCを操作する際のヒンジ部への応力作用に対する設計時の想像力というか推察力が全く欠けている。というのは、薄い肉厚のプラスティック部への雌ネジインサートの設計がお粗末。抜け止めのためにテーパを付けるとかフランジを設けるとか、或いはプレートナットにするとかの工夫があればまだましである。DELL Inspiron ヒンジ部の破損はネットでも多見する。おそらくは負荷試験や繰り返し試験は実施されていないのであろう。カバーのネジ止め部も肉厚が薄いために破損しやすいと推測する。軽薄短小への設計的考慮が軽薄になっているヵ。
 配線の断線に注意してPC底面カバーとディスプレイのベゼルを取り外し、ヒンジ部のディスプレイ部に貫通孔を通し、雄ネジを通してナット止めにした。面倒なのはM2.5のネジが近くのホームセンターになくしょうがないのでM3にて代用しヒンジにも孔拡大の加工を施した。ヒンジが硬いのか、皿モミも含めてドリル加工に時間を要した。PCを閉じればカバーにナットが3個飛び出ていて修復後の外観はスマートではないが、逆にその無骨さには安心感があふれている。予防保全で左側ヒンジ部にも同様の対策を施そうとしたが、面倒なので今後破損することがあればその時に対処することとした。

2024年9月8日日曜日

小説、戦争観の分析、小説

 9月に入っても暑い日が続いている。エアコンはまだ付けっぱなしで運転停止は朝目覚めてからお昼まで。暑さ寒さも彼岸までなんて言葉は死語になってしまった。

 <赤松利市 『風致の島』(講談社文庫、2024年/初刊2020年)>:目を通した著者5冊目の小説となる。舞台はバリ島。暴力と歪んだ愛、欲望のはけ口が展開される。著者の描く異状世界の小説はこれでお了いにしよう。

 <吉田裕 『日本人の戦争観 戦後史のなかの変容』(岩波現代文庫、2005年/初刊1995年)>:いままで本を読んで、あるいは実際に生きてきて身についた歴史観を再確認した内容である。1949年生まれの我が身とすればちょいと時期がずれている同時代史といったところである。敗戦後の”民主化”とされる流れは捩れていて、アメリカ一国の欲望に追従するしかなかった、否、追従する能力しかなかった日本の政治家たちという捉え方はより強く感じる。

 <日野瑛太郎 『フェイク・マッスル』(講談社、2024年)>:70th江戸川乱歩賞受賞作。綾辻行人・有栖川有栖・辻村深月・湊かなえの評価が高く、東野圭吾の評価もそれに準ずるような高評価で、貫井徳郎は違った物差しで評価したとあり、真保裕一は「面白さが私にはわからなかった。ユーモアでは片づけがたい土台の脆弱さが目についたせいだ」とする。
 全体的な軽さが好みではなく、呼んでいる途中で最後にはそれまでの物語のピースをはめ直すはずだとの予感もあった。もっとコミカルな味を加えれば面白さがあった思う。深夜に流す経費削減の安手の安易なミステリーという感じがつきまとった。要は選考委員が高評価するのだが、「面白さが私にはわからなった」。