2024年9月17日火曜日

本を売る、随分前に購入した本4冊を読む

 5ヶ月ぶりに本の買い取りを申し込んだ。今回は読んだ本以外に読むのを止めた本も含めたので、段ボール2箱の合計74冊と多くなった。古い本が多いので大した金額にはならないであろうし、見積査定額が10円のものも多く、中には0(ゼロ)円の本もある。

 <小川原正道 『近代日本の戦争と宗教』(講談社選書メチエ、2010年)>:戊辰戦争・台湾出兵・西南戦争・日清戦争・日露戦争、各時代における宗教の関わりを論じる。
 明治においてそれまでの宗教のあり方のベクトルが大きく変わった。本書で知った真宗の「真俗二諦論」は、端的に言うならば、時の政府に追従し忖度し、詭弁を弄しているとしか捉えられない。その詭弁は現代のいろいろな場面で観察される個人や組織の言動に本質的に繋がっている。最近はもう、それらは人間社会の持つ本能であろうとも考える。そう思うと明治期における戦争と宗教の関係はその社会的本能が近代という括りに顕れた特殊でも何でも無い現象なのであろうとさえ思える。

 <三枝充悳 『インド仏教思想史』(講談社学術文庫、2013年/初刊1975年第三文明社)>:歴史の流れとしてよりも仏教思想の解説書としてのほうに関心が深く、また勉強になった。理解の程度はともかくも仏教用語は殆ど目にしたことがあるので、改めてその内容を理解しようとして読んだ。仏教は中国からの輸入であり、中国に伝わる前のインドにはもっと違ったインド独特の仏教思想があると感じていた。だから本書で読んだインド仏教思想がいまの日本仏教にも直結すると分かったことに対して、自分の勉強不足と無理解と思い違いに恥じ入った。そもそも本書出だしのアーリア人に関しても何も分かっていなかった。
 軽い気持ちで関心を抱いて本書を購入したが積ん読状態にあった。ちゃんと読んでおくべきだった-こういう状態になっている本が自室に多すぎる。

 <小浜逸郎 『なぜ人を殺してはいけないのか 新しい倫理学のために』(洋泉社、2000年)>:75年も生きてきて何を今更ではある。「なぜ人を殺してはいけないのか」、法律で禁止されているから、あるいは、そんなこと人に訊くな自分で考えろ、というのが今の率直な思い。
 「「本当の私」を探すことの不毛性」で著者は「間違いは、今の自分が、すべて本来の自分自身とは無縁な仮面(にせ)だと思い込んでしまうところから始まる」と書いている。その項をみて15年ほど前の読書メモを思いだした。それは『地球を抱いて眠る』(駒沢敏器)を読んだときに著者が書いている言葉である。すなわち、「自分探しをし、癒しを求める人たちが描かれているが、彼らは多分に自己中心で他者が見えなくなっているという感が強い」。その言葉には同感する。

 <阿満利麿 『宗教は国家を超えられるか 近代日本の検証』(ちくま学芸文庫、2005年/初刊「国家主義を超える」1994年)>:現実をみれば「宗教は国家を超えられない」であろう。そして、「国家と正面から対決し、国家に対して独自のスタンスを確立することができない宗教は、普遍的宗教とはいいがたい」(あとがき)であろう。
 自分にとって、個々の思想家の思想がどうで、それが国家社会にどう影響を及ぼしてきたであろうか、ということには関心は低い。関心が強いのは、この国の社会文化(本書で言うフォーク)がどのような歴史的な経緯を経て現代に繋がっているのだろうかということ。例えば、桜のイメージと散華、現生主義、ハレとケ、国家による宗教の分断、等々と天皇との関係性などである。
 宗教は個々人の生活の中で必須とは考えていない、同時に特定の宗教宗派を-それがどのようなものであっても-勧誘する行為にはある種の嫌悪感を持っている。この社会に対峙する自分の立場を、たとえそれが客観的に見てつまらないことであっても自分で見いだすこと、探し続けることが重要と思っている。風呂敷を拡げればその経過・結果が自分にとっての宗教ではなかろうかと考える。
 積ん読、あるいは読みかけては途中で投げ出していた本をいまになって読んでいる。ちゃんと読んでおくべきだったとの後悔と反省とともに。

2024年9月16日月曜日

採決検査結果、対抗戦ラグビー、PCのヒンジ破損

 8月に採血した検査結果が出た。多分10数年ぶりになるのだろう、コレステロールが正常値の範囲に入り、すべてに異常値がなかった。嬉しくなって病院から帰宅後に飲んだ。

 大学ラグビーがスタートした。早稲田の初戦は立教。出だしは立教の闘志ある早い出足に押されてもいたが徐々にトライを重ねるようになり、結果は57(9T6G)-6(6PG)。日本代表の矢崎が4Tと活躍し、ラインへの参加、早さ、等々やはり数段も上である。トライをとってもPOMでのスピーチでも一切ニコリともせずにいたのが印象に残る。思うに、大田尾監督は自由にやらせているのいではなかろうか。
 1年の服部(SO)を見られて良かった。終了近くに担架で運ばれた選手(粟飯原か)の負傷具合が気になる。
 ジュニアB戦で早稲田が帝京に勝利。思い入れも含めてであるが早稲田は層が厚くなってきている(ような気がする)。

 接戦となることの多い筑波vs慶応戦をオンデマンドで観戦。キックオフから暫くは均衡すると思われたが筑波が徐々に引き離して勝利。両校とも軽いプレーで力強さを感じなかった。対抗戦グループは早稲田・明治・帝京の3強に少し差があって筑波・慶応となるか。立教・青学あたりが慶応に勝利すると面白いのだが。

 1Fで使用しているNote PC、“DELL Inspiron 15 3250“の右側ヒンジ部がバリバリと音がして破損。数年前に別メーカーのNote PCの右側ヒンジ部が破損してネジ止めして修復したことがあり、これで2度目。今回も右側の破損であるのは右手での開閉動作のせいであろう。
 主に機械設計で給与を得てきた経験から言えば、PCを操作する際のヒンジ部への応力作用に対する設計時の想像力というか推察力が全く欠けている。というのは、薄い肉厚のプラスティック部への雌ネジインサートの設計がお粗末。抜け止めのためにテーパを付けるとかフランジを設けるとか、或いはプレートナットにするとかの工夫があればまだましである。DELL Inspiron ヒンジ部の破損はネットでも多見する。おそらくは負荷試験や繰り返し試験は実施されていないのであろう。カバーのネジ止め部も肉厚が薄いために破損しやすいと推測する。軽薄短小への設計的考慮が軽薄になっているヵ。
 配線の断線に注意してPC底面カバーとディスプレイのベゼルを取り外し、ヒンジ部のディスプレイ部に貫通孔を通し、雄ネジを通してナット止めにした。面倒なのはM2.5のネジが近くのホームセンターになくしょうがないのでM3にて代用しヒンジにも孔拡大の加工を施した。ヒンジが硬いのか、皿モミも含めてドリル加工に時間を要した。PCを閉じればカバーにナットが3個飛び出ていて修復後の外観はスマートではないが、逆にその無骨さには安心感があふれている。予防保全で左側ヒンジ部にも同様の対策を施そうとしたが、面倒なので今後破損することがあればその時に対処することとした。

2024年9月8日日曜日

小説、戦争観の分析、小説

 9月に入っても暑い日が続いている。エアコンはまだ付けっぱなしで運転停止は朝目覚めてからお昼まで。暑さ寒さも彼岸までなんて言葉は死語になってしまった。

 <赤松利市 『風致の島』(講談社文庫、2024年/初刊2020年)>:目を通した著者5冊目の小説となる。舞台はバリ島。暴力と歪んだ愛、欲望のはけ口が展開される。著者の描く異状世界の小説はこれでお了いにしよう。

 <吉田裕 『日本人の戦争観 戦後史のなかの変容』(岩波現代文庫、2005年/初刊1995年)>:いままで本を読んで、あるいは実際に生きてきて身についた歴史観を再確認した内容である。1949年生まれの我が身とすればちょいと時期がずれている同時代史といったところである。敗戦後の”民主化”とされる流れは捩れていて、アメリカ一国の欲望に追従するしかなかった、否、追従する能力しかなかった日本の政治家たちという捉え方はより強く感じる。

 <日野瑛太郎 『フェイク・マッスル』(講談社、2024年)>:70th江戸川乱歩賞受賞作。綾辻行人・有栖川有栖・辻村深月・湊かなえの評価が高く、東野圭吾の評価もそれに準ずるような高評価で、貫井徳郎は違った物差しで評価したとあり、真保裕一は「面白さが私にはわからなかった。ユーモアでは片づけがたい土台の脆弱さが目についたせいだ」とする。
 全体的な軽さが好みではなく、呼んでいる途中で最後にはそれまでの物語のピースをはめ直すはずだとの予感もあった。もっとコミカルな味を加えれば面白さがあった思う。深夜に流す経費削減の安手の安易なミステリーという感じがつきまとった。要は選考委員が高評価するのだが、「面白さが私にはわからなった」。