<小川原正道 『近代日本の戦争と宗教』(講談社選書メチエ、2010年)>:戊辰戦争・台湾出兵・西南戦争・日清戦争・日露戦争、各時代における宗教の関わりを論じる。
明治においてそれまでの宗教のあり方のベクトルが大きく変わった。本書で知った真宗の「真俗二諦論」は、端的に言うならば、時の政府に追従し忖度し、詭弁を弄しているとしか捉えられない。その詭弁は現代のいろいろな場面で観察される個人や組織の言動に本質的に繋がっている。最近はもう、それらは人間社会の持つ本能であろうとも考える。そう思うと明治期における戦争と宗教の関係はその社会的本能が近代という括りに顕れた特殊でも何でも無い現象なのであろうとさえ思える。
<三枝充悳 『インド仏教思想史』(講談社学術文庫、2013年/初刊1975年第三文明社)>:歴史の流れとしてよりも仏教思想の解説書としてのほうに関心が深く、また勉強になった。理解の程度はともかくも仏教用語は殆ど目にしたことがあるので、改めてその内容を理解しようとして読んだ。仏教は中国からの輸入であり、中国に伝わる前のインドにはもっと違ったインド独特の仏教思想があると感じていた。だから本書で読んだインド仏教思想がいまの日本仏教にも直結すると分かったことに対して、自分の勉強不足と無理解と思い違いに恥じ入った。そもそも本書出だしのアーリア人に関しても何も分かっていなかった。
軽い気持ちで関心を抱いて本書を購入したが積ん読状態にあった。ちゃんと読んでおくべきだった-こういう状態になっている本が自室に多すぎる。
<小浜逸郎 『なぜ人を殺してはいけないのか 新しい倫理学のために』(洋泉社、2000年)>:75年も生きてきて何を今更ではある。「なぜ人を殺してはいけないのか」、法律で禁止されているから、あるいは、そんなこと人に訊くな自分で考えろ、というのが今の率直な思い。
「「本当の私」を探すことの不毛性」で著者は「間違いは、今の自分が、すべて本来の自分自身とは無縁な仮面(にせ)だと思い込んでしまうところから始まる」と書いている。その項をみて15年ほど前の読書メモを思いだした。それは『地球を抱いて眠る』(駒沢敏器)を読んだときに著者が書いている言葉である。すなわち、「自分探しをし、癒しを求める人たちが描かれているが、彼らは多分に自己中心で他者が見えなくなっているという感が強い」。その言葉には同感する。
<阿満利麿 『宗教は国家を超えられるか 近代日本の検証』(ちくま学芸文庫、2005年/初刊「国家主義を超える」1994年)>:現実をみれば「宗教は国家を超えられない」であろう。そして、「国家と正面から対決し、国家に対して独自のスタンスを確立することができない宗教は、普遍的宗教とはいいがたい」(あとがき)であろう。
自分にとって、個々の思想家の思想がどうで、それが国家社会にどう影響を及ぼしてきたであろうか、ということには関心は低い。関心が強いのは、この国の社会文化(本書で言うフォーク)がどのような歴史的な経緯を経て現代に繋がっているのだろうかということ。例えば、桜のイメージと散華、現生主義、ハレとケ、国家による宗教の分断、等々と天皇との関係性などである。
宗教は個々人の生活の中で必須とは考えていない、同時に特定の宗教宗派を-それがどのようなものであっても-勧誘する行為にはある種の嫌悪感を持っている。この社会に対峙する自分の立場を、たとえそれが客観的に見てつまらないことであっても自分で見いだすこと、探し続けることが重要と思っている。風呂敷を拡げればその経過・結果が自分にとっての宗教ではなかろうかと考える。
積ん読、あるいは読みかけては途中で投げ出していた本をいまになって読んでいる。ちゃんと読んでおくべきだったとの後悔と反省とともに。
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