2025年5月29日木曜日

ゴリラのひとくち、ウスラウメ改めユスラウメ、言葉の違和感

 ゴリラの一口、重さが2kgで容量は135cc。350ccのビールも3回に分けて飲むことになり、飲む度にその重さを腕に感じる。節酒と筋トレに効き目があるのかもしれない。最近もっとも愛用しているジョッキである。

 十数年前から毎年実を付けるユスラウメ、沢山なったので1.3kgほどを摘んで今年は2年ぶりにユスラウメ酒とした。1週間経って綺麗なピンク色となった。
 2年ほど前に作ったものは実を取り出してから随分と暗所に放っておいたが、ここ数日は炭酸で割りながらちびちびと口にしている。甘酸っぱさが初夏を想わせる。
 ところで、ユスラウメは長い間その名をウスラウメと覚えていた。ユとウの間違いからそう思っていたのであろう。ユスラとは木を揺することからユスラウメになったのではないかとの説があるそうだが、そのユスラよりはウスラバカのウスラの方が馴染みがあるし、梅になれない小さなウスラバカの梅としていたのかもと思っていた。今となれば恥ずかしい。
 摘んでから1週間経ったらまた実を付けてきた。


 「経済財政運営と改革の基本方針(骨太の方針)」の中の「骨太の方針」という言葉使いに強い違和感を覚える。バッターボックスに立つ実績のない新人に強打者、映画の封切り前に名作と呼称しているような、それらと同様な気がしてならない。事件が起きたときにテレビのニュースで「慎重な捜査を進めている」という説明にも皮肉っぽい感情を抱き、それは捜査って慎重に行うのが基本ではないのかと思うのである。サラリーマン時代に、「一生懸命にやったんです」と最初に言い訳の言葉を発する同僚/部下にも「仕事を一生懸命やるのは基本だろう」と突っ込みを入れたくなっていた(入れていた)。

2025年5月26日月曜日

マンガ、渡辺京二、永井義男

 <佐野菜見 『佐野菜見作品集』(HARTA COMIX、2024年)>:書店でたまたま目について衝動買い。作者に関する知識は皆無で、『ミギとダリ』や『坂本ですが』も本書を手に取って初めて知った。女性漫画家が描く絵柄には相変わらずに馴染めない。描かれる背景は繊細で魅せられるが人物が登場すると途端に違和感を覚え、書店の棚に並べられているBLマンガの表紙を思ってしまう。作品集なので短編が編まれており、寄せ集めの風がある。この作品集は前記2作品のファンが懐かしさを込めて読むのであろう。

 <渡辺京二 『小さきものの近代Ⅰ』(弦書房、2022年)>:「小さきもの」とは「上から日本近代国家を創った人物たちではなく、その創られた「近代」に適応してゆかざるをえない者たちのことを形容」している。
 第一章「緊急避難」では漱石の維新に対するスタンスを、また池辺三山のそれを概説する。「維新が開いた近代国民国家建設の過程が、いつゴールにたどりついたかと言えば、結局は1945年の敗戦だったというのが」渡辺京二考えであり、共感している。それは皮肉っぽく別の表現で言えば、維新や明治が帰着したのがその敗戦だったというのが自分の思いである。緊急避難として形成された維新に、当時の知識人たちの冷めた見方を紹介し、論じ、章末に長谷川如是閑の言う「「ぼうふら」扱いされて来た名もなき人びとの希求と努力」による「中味の歴史」を書くことを試みたいとし、第二章以下に続く。
 第二章は「徳川社会」。打倒された徳川国家を述べる。以降、「自覚の底流」では「小さきものたち」の自覚を例えば一揆を記述し、「開国と攘夷」では水戸学をある意味罵倒し尊攘派志士たちの空論を論じ、イデオローグとしての吉田松陰には「思想家として納得の行かぬ」ことを記し、吉田松陰嫌いの自分にはここも我が意を得たりと感じる。高杉晋作に対する批判にも同感の思いを抱く。積み重ねた自分の思いが精確に代弁されていると思いである。
 以降「異国体験」(万次郎や彦太郎、薩摩藩の留学生たちを描く)、「幕臣たち」、「敗者たち」(主に会津藩に生きて辛酸を嘗めたひとたち)、「女のちから」(著名人たちの母など)、「黙阿弥と円朝」と続くが、次第にエピソード集のように思えて読むのが雑になった。
 渡辺京二は2022年92歳で亡くなってしまった。2007年に『逝きし世の面影』を読み、それ以降18年間にわたって読み続けた冊数は本書を最後に36となった。会社勤めの時は昼休みに自席で食事を摂りながら読んでいた。あのときも今もどれだけ理解できたのか心許ないが、自分の思いを整理してみたり、考え方、世の中の捉え方などに尠くとも影響を受けたことは間違いない。

 <永井義男 『秘剣の名医 十八』(コスミック・時代文庫)>(コスミック・時代文庫、2025年):書名は「秘剣の名医」であるが、「秘剣」で活躍するシーンは出てこない。メインスト-リーは枕絵の「開の生き写し」を巡る謎ときであり、その間に別の殺人があり、そこでは新たに登場する犬ホントが目立たずに活躍する。

 <永井義雄・はしもとみつお 『不便ですてきな江戸の町 ③』(リイド社、2025年)>:国さんと、お腹が大きくなったおようさんは江戸から東京に移り、朝、おようさんは子どもを抱えて国さんに「行ってらっしゃ~い」と声をかける。了。

2025年5月2日金曜日

ワクチン接種、興味のない本2冊

 暖かくなったり肌寒くなったり、ガスストーブをまだ片づけられない。

 敷地内の電柱を囲んでいるつるバラが白い花をつけた。毎年咲くことがないのは、伸びた枝を切り落とす程度で手入れを殆どしていないからであろうか。植えてから20年ほど経っているのによく育っているものである。
  


 帯状疱疹ワクチンを接種した。ワクチンの種類はシングリックスで今日はその1回目。2回目は2ヶ月後。連れ合いとの合計費用は88,000円と高価。市役所への補助金交付申請は先月に済ませており、合わせて8,000円の助成額申請は2回目の接種を終えて書類申請となる。

 <地球の歩き方編集室 『地球の歩き方 ムーJAPAN ~神秘の国の歩き方~』(GAKKEN、2024年)>:「ムーの世界」や「神秘の日本」にも興味はないが、それらがどのように説明されているのかに興味があって流し読みした。頭に浮かんだのは日ユ同祖論であり、大野晋の「日本語起源=タミル語」や神社/神道など。そして唐突に”To answer the question, we need to ask another question, What is I ?”。
 酒でも飲み交わしているときに雑学知識として披露すると楽しめるかも。

 <たつき諒 『私が見た未来 完全版』(飛鳥新社、2021年)>:異世界に生きている現実の人間については全く興味を抱かない。簡潔に言えばつまらない漫画を見てしまった。もうちょっと深みのある予知夢について書かれているのかと思ったが…。
 どこかで田坂広志『死は存在しない』に概説されている”Zero Point Field”に繋がる描写を期待していたが全くの別物であった。

2025年4月23日水曜日

桜の鶴ヶ城、日本語の本とミステリー

 高校1年の時からの友人が数日前に写真を送信してくれた。鶴ヶ城を後背にして桜が美しく咲いている。どちらの写真も中央に鶴ヶ城が写っており、16歳の春、奥会津から会津高校に入学し、少し心を弾ませて城内を歩いた春の日を思い出す。 

 先日、BSにて会津若松を舞台とした1962年の映画「春の山脈」(鰐淵晴子・十朱幸代が出演)を観た。63~64年前の市内や東山温泉の情景が流れ、二つの写真と相俟って中学から高校にかけての自分の姿がモノクロになって脳裏に浮かんできた。
 
 <飛田良文 『明治生まれの日本語 (4版)』(2024年、角川ソフィア文庫)>:言葉は活きている。明治になって新しい概念が輸入され、新たなる日本語が考え出された。その新たな言葉がいつどのように作られたのか解かれる。それはそれで楽しめるのであるが、不満も残る。それは人々が実生活の中でどのように語られ、或いは書かれたのか、端的に言えば実生活での乾きや湿り気のような空気を感じ取ることが出来ないからであろう。「電信」が広まってきた頃、事実なのか否かはさておき、風呂敷包みを電線にぶら下げて送ろうとしたという逸話があった。こういうことにこそ「電信」の言葉が活きてくる気がする。また、例えば「哲学」という言葉について言えば、西周がこの訳語を生み出すまでに至った経緯や思考などを知りたいと思う。

 <古処誠二 『いくさの底』(角川文庫、2023年/初刊2017年)>:日本軍がビルマに進展していた頃―多分1943年頃、ビルマ北部の小村において警備隊を将いる賀川少尉が着任直後に殺される。日本軍・重慶軍・村のリーダーと人々たちが構成する村で賀川少尉を誰が何故殺したのか探索が始まる。そして続いて村長も惨殺される。
 頁を開くと最初に書かれている文章は「そうです。賀川少尉を殺したのはわたしです。(中略)二度と訪れない好機が巡ってきて、それでも行動を起こさずにいられるものでしょうか」。「わたし」とは誰で、「好機」とは何を意味するのか。「行動」を起こす動機は何なのか、最後にはすべて明かされる。戦場における「わたし」の置かれた状況、重慶軍と日本軍の傘の下で生活しなければいけない村の状況、殺人の背景、これらの全てが戦という鍋の深みにある「いくさの底」である。そして事件解明後の展開もまた「いくさの底」からの新たな展開を生じさせている。
 特異な状況下における卓れたミステリーを楽しめた。

2025年4月17日木曜日

雑記、雑読

 友人に十朱幸代が歌う2曲-「セイタカアワダチ草」「風の盆」-を送ったら、スコアを作成してくれた。彼の耳コピ能力は凄いと思うし、有り難い。ボーカルをカットしたファイルも作りこれも彼に送った。MuseScoreを活用して自分のEWI演奏スタイルに合わせて移調し、そのうちに練習することとなる。
 現在もある海外のマイナーな曲をカラオケに重ねるべく練習はしているが、もとより演奏技術は劣るので遅々として満足のいくものにはならない。一方では演奏しようとする楽譜を暇にまかせて作っているので、楽譜は増えるが演奏する録音ファイルはなかなか増えない。
 友人の作ってくれた楽譜で課題練習曲はまたもや増えた。

 <古町・魚豊 『Dr.マッスルビート 1』(秋田書店、2025年)>:魚豊の名を見てこのマンガを購入したが、表紙を見て”違う”と感じ、奥付を確認したら魚豊は「1巻原案」とあった。読んでみた1巻はマッチョ入れ込みの青年が昆虫にのめり込むプロローグといったところ。取敢えず(とは好きな言葉ではないが)数ヶ月後になるであろう次巻にも眼を通してみよう。続けて読むか否かは次巻次第である。

 <神長正博 『ウソを見破る統計学 退屈させない統計入門』(講談社ブルーバックス、2011年)>:高校のとき「確率と統計」は好きじゃなかった、不得意だった。特に統計学独自の数学記号には馴染めなかった。そういう背景もあろう、もっと卑近なエピソード的事例を期待したのだが、外れた。でも、一度は頭に入っていた統計用語が記憶の底から浮かび上がって面白かった。

 <堀越英美 『エモい古語辞典』(朝日出版社、2022年)>:数時間かけて全体に目を通す。無論1%も頭に中に残りはしないので、興味ある言葉の載っている頁には付箋を貼っておく。言葉の豊かさに浸って心地よい。しかしながらコケティッシュな表紙や挿絵を見れば、上品な色恋の情景を浮かばせる言葉の解説が欲しい。

 <豊永浩平 『月ぬ走いや、馬ぬ走い』(講談社、2024年)>:恰も凝縮された前衛音楽が時代や人間社会を超速で表現しているような、圧倒的なスピードで戦中から戦後を駆け抜けた感じがした。また、別の表現をすれば、底の見えない井戸を覗くように深淵を探るような鋭角な視線を感じた。
 21歳の作者が、言葉を爆けさせて駆使してこのような小説で歴史を表現すことにすることに驚きがあり、2作目はどのように描いていくのだろうと興味がある。新しい世代の新しい文学と言っていいのだろう。正直に言えば、刺激的だが少し疲れて途中で倦きも出てきた。

2025年4月3日木曜日

4月、雑読

 もう4月、今年も4分の1が過ぎ去った。4月に入って親しい友人たち2人と一緒に3人で76歳を迎えることになる。知り合ったのは高校入学時に同じクラスになったことで60年前のことだった。そして娘の長女は高校生になって大宮に通うことになる。彼女の年齢に自分を重ねては斑状に昔を思い出す。

 <山本弘 『ニセ科学を10倍楽しむ本』(ちくま文庫、2015年/初刊2010年加筆)>:楽しめた。そして何故にこうもバカが多いのかと呆れもする。

 <白石一文 『Timer 世界の秘密と光の見つけ方』(毎日新聞出版、2024年)>:Timerは89歳までの健康長寿を保証された装置で、89歳のカヤコはそれを装着している。一方、7歳年下のカズマサは付けていない。生きるとは何か、この世界とは何か、思索することに満ち溢れた一冊。白石さんの小説にはいつも魅了され、この本にも、想像力と深い思索と物語の構成・展開にすごさを感じる。
 終わりにある次の言葉が鋭くて深い。すなわち、「いまこうして、あなたたちがいるのは、同じゴンドラの乗り手が重なり合っているからに過ぎない。すべてはあなたのイメージであり情報なのだ」とはTimerを発明したサカモ博士の言葉。そして、「あなた自身が世界なのだ。この世界は、あなた自身がすべてを作り出したものなのだ」。

2025年3月20日木曜日

Spring is Nearly Here

 3月も後半に入り、桜のニュースも見聞きするようになったこの季節、50年以上も前のShadows-Spring is Nearly Hereが流れてくるような心地になる。

 高校入試が終わり、4月から高校生となるCチャンが立寄り、長い髪の溌溂とした15歳の彼女が大人になってきたとつくづく感じる。彼女がすぐ近くにある家に帰るときは必ず送っていくのは15年近くも続けている習慣であり、話しながらの短い時間は楽しい。

 <窪田新之助 『対馬の海に沈む』(集英社、2024年)>:対馬におけるJA共済22億円の横領が発覚し、「神様」と呼ばれた一人の職員が車で海に沈んだ。共済を装って不正融資で得た金を得たのは西山だけなのか、丹念な調査と取材を通じてJAの構造的問題、地域組合員との狎れ合いを露にしていく。人間個人の愚かさというか滑稽さ、腐る組織の典型例、個人へ転嫁する狡さ、等々。
 この本の読み方には二つの側面がある。一つは先に書いた人間と組織の有り様、もう一つは著者の真相に迫るアプローチである。どちらの立場でも途中で頁を閉じるのを躊躇うほどに楽しめた。

 <周防柳 『小説で読みとく古代史』(NHK出版新書、2023年)>:サブタイトルには「神武東遷、大悪の王、最後の女帝まで」。古代天皇史を概観し、その時代を描く小説が紹介される。全くつまらない一冊であった。史実を題材にした小説はその作品の著者の解釈(あるいは思い入れ)に基づく創作であり、それを承知の上で楽しむのはそれで良しとし、自分も時にはその視座で楽しみもする。しかし、歴史学者の論ずるテキストを開き、そこから湧き出る関心を小説に向けるというプロセスなしに、単に羅列される小説の紹介を読んでもつまらないの一言に尽きる。逆に、『天皇の歴史』(講談社)やその他の歴史書を再読しようかなという気持ちが出た-時間的に無理だが。