2025年4月3日木曜日

4月、雑読

 もう4月、今年も4分の1が過ぎ去った。4月に入って親しい友人たち2人と一緒に3人で76歳を迎えることになる。知り合ったのは高校入学時に同じクラスになったことで60年前のことだった。そして娘の長女は高校生になって大宮に通うことになる。彼女の年齢に自分を重ねては斑状に昔を思い出す。

 <山本弘 『ニセ科学を10倍楽しむ本』(ちくま文庫、2015年/初刊2010年加筆)>:楽しめた。そして何故にこうもバカが多いのかと呆れもする。

 <白石一文 『Timer 世界の秘密と光の見つけ方』(毎日新聞出版、2024年)>:Timerは89歳までの健康長寿を保証された装置で、89歳のカヤコはそれを装着している。一方、7歳年下のカズマサは付けていない。生きるとは何か、この世界とは何か、思索することに満ち溢れた一冊。白石さんの小説にはいつも魅了され、この本にも、想像力と深い思索と物語の構成・展開にすごさを感じる。
 終わりにある次の言葉が鋭くて深い。すなわち、「いまこうして、あなたたちがいるのは、同じゴンドラの乗り手が重なり合っているからに過ぎない。すべてはあなたのイメージであり情報なのだ」とはTimerを発明したサカモ博士の言葉。そして、「あなた自身が世界なのだ。この世界は、あなた自身がすべてを作り出したものなのだ」。

2025年3月20日木曜日

Spring is Nearly Here

 3月も後半に入り、桜のニュースも見聞きするようになったこの季節、50年以上も前のShadows-Spring is Nearly Hereが流れてくるような心地になる。

 高校入試が終わり、4月から高校生となるCチャンが立寄り、長い髪の溌溂とした15歳の彼女が大人になってきたとつくづく感じる。彼女がすぐ近くにある家に帰るときは必ず送っていくのは15年近くも続けている習慣であり、話しながらの短い時間は楽しい。

 <窪田新之助 『対馬の海に沈む』(集英社、2024年)>:対馬におけるJA共済22億円の横領が発覚し、「神様」と呼ばれた一人の職員が車で海に沈んだ。共済を装って不正融資で得た金を得たのは西山だけなのか、丹念な調査と取材を通じてJAの構造的問題、地域組合員との狎れ合いを露にしていく。人間個人の愚かさというか滑稽さ、腐る組織の典型例、個人へ転嫁する狡さ、等々。
 この本の読み方には二つの側面がある。一つは先に書いた人間と組織の有り様、もう一つは著者の真相に迫るアプローチである。どちらの立場でも途中で頁を閉じるのを躊躇うほどに楽しめた。

 <周防柳 『小説で読みとく古代史』(NHK出版新書、2023年)>:サブタイトルには「神武東遷、大悪の王、最後の女帝まで」。古代天皇史を概観し、その時代を描く小説が紹介される。全くつまらない一冊であった。史実を題材にした小説はその作品の著者の解釈(あるいは思い入れ)に基づく創作であり、それを承知の上で楽しむのはそれで良しとし、自分も時にはその視座で楽しみもする。しかし、歴史学者の論ずるテキストを開き、そこから湧き出る関心を小説に向けるというプロセスなしに、単に羅列される小説の紹介を読んでもつまらないの一言に尽きる。逆に、『天皇の歴史』(講談社)やその他の歴史書を再読しようかなという気持ちが出た-時間的に無理だが。

2025年3月13日木曜日

雑読

 <石井千湖 『積ん読の本』(主婦と生活社、2024年)>:本書に登場する「積ん読」人たちの書斎あるいは家中に積まれた本の写真に圧倒される。購入した本は基本的に読むべきであるとする自分は、まだ読んでいない本が目に入る度にある種の罪悪感に苛まれる。積ん読の程度に雲泥の差があるけれど、その積ん読人たちの言葉に少しホットする。
 以下、そのホットする言葉を幾つか引用しておく。
 「好書家は如何に速読家でも或る程度に於てのツンドク先生たらざるを得ないだろう。だが、ツンドクの趣味を理解しないものは愛書家で無いのは勿論真の読書家でも亦無いのを信じて、私は常にツンドク先生に敬意を表しておる。(内田魯庵「多忙なる読書と批評の困難」)」。「作家の奥泉光さんが、背表紙を読んだだけで本は読んでいることになる、そして読み終わることはないと言っていました」。「本は知識のインデックス積まなくてどうする」。「本は<冊>という単位で考えるべきではない。本は物質的に完結したような顔をしているけれども、あらゆるページと、瞬時のうちに連結してはまた離れるということを繰り返しています。一冊の本を読んでいるつもりでも、読んでいるときの頭のなかには、いろんな本のページやパラグラフが読み込まれている。本は常に進行中・生成中のヴァージョンだから、表紙から裏表紙まで読んでも読み終わることはない。何が書いてあったかを忘れてしまうのもあたりまえです」。そして次の言葉は読書することの本質をついていると思う。すなわち「過去と現在と未来、三人の自分と協力プレイして一冊の本を読んでいるんですね」と。
 本書に登場する人たちと、少ない読書量の自分を横に並べることは不遜でしかないことは自覚している。

 <青山透子 『日航123便 墜落の波紋 そして法廷へ』(河出文庫、2025年/初刊2019年)>:著者は「日航123便墜落事件」に関して8冊を著しており、その中で最初に読んだのは『日航123便墜落 遺物は真相を語る』。今回はそれに続いての2冊目。最近読んだ森永卓郎さんの『書いてはいけない 日本経済墜落の真相』も含めるとこの事件の本は3冊目となる。所謂権力側の見解や調査報告は読んでいないけれど、出典や論拠を明らかにするこれら3冊の本は全面的に信頼している。そして、今後とも事件の真相調査はなされることはなく、隠され続け、関係者は沈黙し、ただただ忘却されることになるであろう。

 <八木澤高明 『忘れられた日本史の現場を歩く』(辰巳出版、2024年)>:飢饉で故郷を離れる、開墾する、国策で満州に渡るが敗戦によって土地を失い引き揚げて「新しい地に入植、原発事故、地震、津波、洪水・・・・消されてしまう人々の生活。すべてが歴史の中に埋もれている。
 著者が「好んで歩いてきたのは・・・(中略)・・・どちらかというと、由緒正しきものではなく、悲劇や血に彩られた悲しい歴史で」あり、本書に描かれたは下記の19過所。
 独自の呪術信仰”いざなぎ流”-拝み屋が暮らす集落/ハンデミックの悲劇-面谷村/インドから帰ってきた女性-からゆきさんがいた村/蝦夷に流れ着いだ和人たちの城-志海苔館/かつて栄えた風待ちの港-大崎下島/『遠野物語』に記された”アンデラ野”-姥捨山/海外への出稼ぎ者が多かった土地-北米大陸と繋がっていた村/本州にあったアイヌの集落-夏泊半島/朝廷に屈しなかった蝦夷の英雄-人首丸の墓/国家に背を向けた人々の”聖域”-無戸籍者たちの谷/飢饉に襲われた弘前の地-菅江真澄が通った村/800年前から続く伝説-平家の落人集落と殺人事件/潜伏キリシタンが建てた教会-中通島/飢饉で全滅した三つの村-秋山郷/難破船と”波切騒動”-大王崎/本土決戦における重要拠点-館山湾/古より遊女が集まる場所-青墓宿/江戸時代の大阪にあった墓地群-大阪七墓/自由に立ち入れない場所-津島村。
 大崎下島、夏泊半島、秋山郷には観光で行ったことがある。大崎下島だけは本書にある写真を思い出してかの地の歴史を感じたが、他は全く無縁で単に行ったことがあるとするだけである。
 全体的には著者の感想を中心とした、重みを感じることのない一冊である。風景の中に著者の心象を反映しているだけで、「忘れられたこと」の深層にあまり向き合っていない。

2025年3月12日水曜日

自民党の水脈(?)

 1955年(昭和30年)に自民党は立党し、「党の性格」には「個人の自由、人格の尊厳及び基本的人権の確保が人類進歩の原動力たることを確信して、これをあくまでも尊重擁護し、階級独裁により国民の自由を奪い、人権を抑圧する共産主義、階級社会主義勢力を排撃する」とある。また平成22年(2010年) の自民党綱領には「自立した個人の義務と創意工夫、自由な選択、他への尊重と寛容、共助の精神からなる自由であることを再確認したい」とある。なるほど、それでかの人権侵犯を認定された人を参議院比例区出馬への認定をしたこととどう整合性を論じられるのだろうか。
 首相は「公認の評価は最終的に選挙において有権者に判断いただくべきことがらだ」と述べている。そうではなくて選挙という舞台にあげることの認識が問われていることに応えていない。立党から現在まで、自民党の地下にはどのような「水脈」が流れているのだろうか。
 自民党の「立党宣言・綱領」記載の年号には西暦(和暦)と和暦(西暦)の両方を使用している。統一していないことに何か意味はあるのだろうか。
 民主主義は「second-worst」であると主張していた今は亡き友人のことが思い出される。

2025年3月8日土曜日

Cチャンの公立高校合格

 愛する娘(Mチャン)のその娘、溺愛するCチャンの私立高校合格から1ヶ月以上が過ぎ、今日(3/6)は第1志望の公立高校入試合格発表。Web発表開始時刻直後にMチャンからLINEが入り、合格を直感し、メールを見ると「あなたは、全日制普通科の入学許可候補者となりました」の画像があった。
 Cチャンは受験当日にMチャンとともに我が家に立ち寄り、「合格ラインに届かなかったかも」と言っていた。内申の点数は良いので何とか受かるのではないかと思っていたし、連れ合いは「受かるよ」と言い切っていた。
 倍率が年々高くなっている高校で今年も1.5倍近くになっており、理数科は県内トップの倍率で、そこを落ちた人は普通科に流れてくるだろうとの不安があり、Cチャンは他の高校、といっても偏差値は同程度で入学定員数が多いからそっちに変えようかと受験前には少し悩んでいた。母親であるMチャンも変えない方がいいと思っていた。が、その気持ちの納得を得るために我が家に相談しに来たとき、連れ合いと二人で変えない方がいいとアドバイスしていた。結局は最初の予定通りの高校を受験した。
 合格の連絡をもらってからすぐにLINEを通してCチャン・Mチャン・連れ合いと4人で話をして喜びを分かち合った。嬉しくて仕様がない。60歳差の女の子が春からはJKとなる。卒業祝・私立高校合格祝・公立高校合格祝・入学祝、それに試験前に右手人差し指を小さく骨折していたのでそのうちに完治するであろうお祝い・・・と沢山のお祝いをしてあげよう。本人にもそう言ってあるので、Cチャンにはこれから何を頂戴しようかと大いに悩んでほしい。

2025年2月27日木曜日

まとまりのない読書

 最近は以前にも増して国内外政治関連のニュースを見るのが嫌(厭)になる。まして朝に流れていたのと同じ映像が繰り返し流れるとほぼ確実にオフにする。なぜなら、腹が立つやら苛立ちを覚えてしまうから。なぜにこうも人間は愚かなのであろう、否、愚かなことに自覚できない政治屋が多いのであろうか。

 <永井義男 『隠密裏同心 篠田虎之助 最強の虎 五』(コスミック時代文庫、2024年)>:ニ部構成で物語が二つ。何も考えずにただただ小説の中でゆったりした時間を過ごせる。

 <澤宮優・平野理恵子 『イラストで見る 昭和の消えた仕事図鑑』(角川ソフィア文庫、2021年/初刊2016年加筆修正)>:後期高齢者の我が身にとってはこの本に描かれていることはほぼ全てを見聞きしている。懐かしくもあり、過ぎた年月を尚更に重く感じてしまう。思い出すのは、大学に入学した時に上野公園の近くの道路沿いに白衣の傷痍軍人が金銭を求めて数人いたことで、戦後23年ほども経つのにこういう状態がまだあることに驚いた。高校の修学旅行先では自転車の荷台でアイスキャンデーを売っていたし、小学生の時には奥会津でポン菓子製造機が子供たちを集めていたし、苦学生(の空気を漂わせた)学生服の男性が鉱山社宅を回って鉛筆を売り歩いていた。
 昭和になって今年で100年が経った。戦後の団塊に生れ、学生運動がまだニュースとなっていた高校・大学時代前期、結婚して子供が誕生し・・・・思い出せばきりがない。

 <寺田浩晃・筒井康隆 『残像に口紅を』(KADOKAWA、2025年)>:筒井康隆の作品を漫画にしたものであり、原作は読んでいない。残像は虚構で口紅は現実なのか。現実は何かに支配されていて実は虚構の中で生かされており、その虚構を鳥瞰して楽しもうとするのが現実なのか。

 <加藤文元監修 『知識ゼロでも楽しく読める! 数学のしくみ』(西東社、2024円)>:帯には「文系でも、初学者でも、学び直しでも、これならわかる」とある。大学の工学部を卒業し、サラリーマンとなってからも定年退職まで機械の開発設計に携っていた。だから一応は理系人間という矜恃(自惚かも)はあるし、数式にも数学用語にも抵抗感はない。しかし、図形の基本的定理ももうほんの少ししか覚えていないし、二次方程式解の公式すらおぼろげでしかなく、立体体積の算出式すら覚えていない。本書を手に取った意味は、かつて身を置いた理系的環境の中に身を入れて楽しんでいるに過ぎない。
 大学時に使用した材料力学のテキストを最初から最後までトレースしてみようと思うのだが、なかなか時間を割けないでいる。

2025年2月22日土曜日

本の買取依頼、辞書と時代小説

 昨年9月以来、5ヶ月ぶりに本を買い取ってもらった。前回は72点、今回は46点。この5ヶ月の間に読んだものばかりではなく、積ん読になっていて興味がなくなった本や、何気なくとっておいた本も含めての点数であり、少しずつ部屋の中の本を少なくしようと努めてはいる。が、新たに買ってしまう本もあり、閉じられたまま読んでいない本はなかなか減らない。

 <永井義男 『吉原同心 富永甚四郎』(角川文庫、2024年)>:兄を病で亡くした甚四郎は目指していた蘭方医を諦め、急遽同心を継ぐことになった。兄と結婚する予定だったお八重を妻とし、勤め先として通うのは吉原の面番所。
 吉原、同心、蘭方医と著者の他の小説の流れにある新しいシリーズ。だからどこか既視感のある物語であるが本書は新たな舞台で楽しめる。戯作好きのお八重のキャラクター描写が今後面白そうである。

 <永田守弘編 『官能小説用語表現辞典』(ちくま文庫、2006年/初刊2002年加筆訂正)>:斜め読み。性行為はパターン化されている(もしかした知らない行為があるかもしれないが)。その決まり切った行為であるからこそかもしれないが、官能小説家の想像力、妄想力はとてつもなく広がり、その言語感覚には敬服する。しかし、参考としている官能小説の書名を見るとそれだけでストーリーのイマジネーションは頭の中で広がり、そして、オノマトペに記される擬態語・擬声語には思わず笑ってしまう。