2024年10月21日月曜日

真保さんの小説、二日市保養所

 <真保裕一 『魂の歌が聞こえるか』(KADOKAWA、2024年)>:バンド音楽を核とする業界の感動のミステリー。殺人は起きない。人気が下降していて立て直しを図るアーティストと担当A&Rの葛藤と苦悩。同時に、卓れた才能と音楽性を持っているグループ/ベービーバードを世に出そうとするが彼らは顔も実名も表に出すことを拒否する。それが何故なのか、何を秘めているのか、それがこの小説のミステリーの要。グループの過去が明らかになるにつれ、彼らの苦しみ、白日のもとに晒したくない理由の輪郭が判明する。彼らの友情と善意と音楽への絡みが感動的に展開される。音楽業界のビジネスと組織のしがらみ、そこに働く主人公の音楽に向き合う真摯な態度。弁護士とグループを応援する人たち、週刊誌の嫌らしさ、いろいろ絡み合って楽しめた。
 1991年に『連鎖』を読み、それから33年間で31冊目の小説となった。

 <下川正晴 『忘却の引揚げ史 泉靖一と二日市保養所』(弦書房、2017年)>:敗戦後に満州/朝鮮から引き揚げる際、多くの日本女性がソ連兵から陵辱されたことは歴史的事実としてよく知られていることである。しかし、暴力的に犯された結果としての妊娠中絶/性病治療を施した施設のことは知られていない-私は知らなかった。その施設が二日市保養所であり、約1年半後に閉鎖されている。保養所という名称は皮肉っぽく滑稽であるが、そこで中心となって活動した人物が泉靖一であり、彼は後に東大教授の文化人類学者でインカ・アンデス文明研究に大きく寄与した。
 問題は、このような施設運営への政府関与、その後の歴史の中で殆ど公にされなかったことであると私は捉える。戦勝国であるソ連への配慮、妊娠中絶の違法性、当事者である彼女らへのプライバシー保護、等々いろいろな理由はあるであろうが、臭い物に蓋という隠蔽体質が根っ子にあることも大きな理由の一つであろうし、歴史修正主義的な歪んだ志向性ということも否定できないであろう。
 本書でも言及されているように、敗戦国ドイツ/ベルリンでもソ連兵によるレイプは多く発生し、多くの女性が自殺している。レイプ時は男性が身を差し出すように女性に願い、また出産した子を病院に置き去りにする例も報告されている。要は、敗戦時の悲惨さは国によらずどこでも同じであり、加害者として日本軍の行った非道も同類である。このことについて考えを巡らしても方程式を解くような正解は見つかるはずもない。もう何もかもが人類の本能であると言い放つ気分にもなってしまう。
 泉靖一が幼い女の子を胸に抱いている写真が本書の表紙にあり、本文にも載っている。彼女は昭和21年に引揚げ船のなかで生まれ、父親は母親を犯したソ連兵であること以外は分からず、白い肌と青い目をしており、母親が二日市保養所に引き取りを懇願して去ったという。女の子の表情は無垢で柔らかく、寂しそうでもあり微笑んでいるかの様でもある。彼女のその後の人生はどうだったのであろう、成長するにつれ何を知り、何を感じ取り、何を思いながらどう生きていたのであろうか。想うだけで愛(かな)しい。
 本書、本質的なところを鋭く抉り出すという点において物足りなさを覚える。この感想と裏表の関係にあるが、関係者の人物像や行動を描写することに多くの頁が割かれている。世に知られていない事があること、明らかにされていないことの事由について、全国紙に殆ど書かれていないこと、政府刊行物がないこと、福岡市の冷淡さなどを述べるが、なぜそうなっているのかについての掘り下げ、考察が浅いと思った。

 絵を描ける人、音楽的才能に恵まれている人、スポーツに抜きん出た人、彼ら彼女らに羨望感を抱くことは普通にあるが、実はその才能を羨ましく思うのではなく、それらに打ち込める姿勢にある種のジェラシーを感じているのではないかと思うことが多い。受験勉強に打ち込んだその先に何があるのか、仕事に打ち込んだことで得られるものは何か、結局は目の前にぶら下がっている日常の表層的課題に取り組んだだけではないか、何かを棄ててまで深く入り込めたものはないのではないか、と思うことがある。楽器演奏も下手くそだし、絵を描きたいと思っても技量はないし、そもそも描く対象が分からない。スポーツも全般的にそこそこできたが得意なものはない。本が好き、音楽が好き、絵を見るのも好き、酒も好き、でもなんというのか中途半端に終わっている。この年齢になってもそこに自分の無才を強く感じてしまう。でも、もしかしたら、デラシネの如く漂う時間に流されるのが無才の楽しみ方なのかもしれない。

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