2019年2月20日水曜日

『星夜航行』読了

 <飯嶋和一 『星夜航行 下巻』(講談社、2018年)>:天正20年(1592)加藤清正と鍋島直茂が朝鮮/咸鑑道への侵攻開始するところから下巻の頁は開かれる。秀吉の野心と思い込みによる妄想で、日本の百姓たちは戦いの場に狩り出され、残された農地は荒れ、秀吉の命に従いかつ自己保身の装いを纏う将たちは侵攻と退却を余儀なくし、明に向かうところか朝鮮をも通れず、対馬を臨む釜山などの城から出られずにいる。秀吉にも朝鮮国にも与することなく甚五郎は民の安寧を求め、結果的には降倭の軍を率いる。秀吉は名護屋城までしか足を運ばず、あとは朝鮮担当の武将が保身故にねじ曲げた情報をもとに、秀吉は自らの愚かな野望に都合よく思い込みを重ね、無謀な勝算のない命を発する。日韓関係が悪しき状態になっている昨今、両国の政権を重ねてみてしまう。どちらの国に寄るということではなく、権力を掌中に握った愚者たちの諸諸の愚行に距離を置いて眺めるということである。
 戦いの詳細な描写には少し読む気持ちが遠ざかるときもあったが、詳細が故に臨場感は伝わってくる。星の夜は直接的には描かれないが、東シナ海や日本海に船を浮かべ、星を見上げて進むイメージが何度も浮かんでくる。政治的に読めば秀吉はボロクソに書かれているし、官僚たる武将たちは保身的で秀吉に追従し外交文書をも改竄するあざとさが見える-現今の政治官僚の状況と何も変わらない。一人の人間の生き様を見れば、人の生き方や交わりに柔らかな温もりを感じ取れる。
 小説の中で何度か語られ、合い言葉でもあった歎異抄の言葉、「いずれの行もおよびがたき身なれば」「・・・」「地獄は一定すみかぞかし」が重く響く。そしてこの言葉からは、石和鷹『地獄は一定すみかぞかし』を思い出し、暁烏敏の名が脳裏に浮かぶ。その一方では、暁烏の人生や思想を理解できないままに(共感も出来ずに)読んだことを思い出した。
 長い小説で、上下巻あわせて厚さは普通の単行本の4、5冊分はあり、読み終えて、傑作・名作を読了したときの爽快感というのか、気持ちが和やかに落ち着く満足感というのか、心地よい充足感に満たされた。

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