2024年3月29日金曜日

友人と北千住および上野、読んだ本のメモ

 一昨日は友人のPC新規購入と設置フォロー。続いてこの日はメール関連フォローで北千住へ。WiFiフリーのコーヒー店を探すのに約1時間。その後約4時間を過ごす。前日の事前調査というか確認、およびその後の再確認でよく分かったことは、あるドメインのメールはwindows11の最新outolookに絡めると不具合が生じる。だから新しいoutolookへの導入要求がきても絶対に応じてはいけないこと。応じてしまうとwindows11標準メールの設定が壊れてしまいメールが出来なくなる。また、あるスマホの機種はLINEに適応できない。適応できないという表示は出ずに勝手に友だちが登録されたりするが実際は友だち登録はできないし、そもそもLINEが機能しない。パソコン・スマホ関連は面倒であることを改めて認識させられた。
 前段までは20日に書いたメモ。その1週間後に今度は上野で6人で飲む(といっても一人は宗教上の理由でいつものようにアルコールは飲まない)。前回の上野での飲み会と同様に五反野でSuJuと二次会。五反野は、これで3度目。店主とも少しは顔馴染みになったようである。昔の深酔いのせいで、最近の外飲みではwhooで居場所を監視(?)されている。そのせいでもないが、以前のように深夜の帰宅、電車乗り越しはないのであるが。

 <ヘザー・モリス 『アウシュヴィッツのタトゥー係』(双葉文庫、2024年/初刊2019年)>:フィクションとあるが、背景には忌まわしいアウシュヴィッツとビルケナウを往復する、強制収容されたユダヤ人に番号のタトゥーを入れるユダヤ人の物語。ドイツ人監督者との日常的接触、知り合ったユダヤ人女性との恋愛(戦後解放されてから結婚する)、死にゆく知人や多くのユダヤ人たち。いままで読んだユダヤ人ホロコースト関連のテキストとは趣の異なる内容であることに違和感のような思いも感じ、それでいてあの非道な歴史にどうしようもない憤りを思う。悲劇の歴史が何度も何度も世に現れるのはその本質は何も解決されていないし今も繰り返されているからに過ぎない。人間というのは豊かな感情と豊富な知識をもった残虐な動物集団でしかないのであろう。このような本を読むといつもやるせない気持ちになり、結局はこの世の中において、自分はそれらにどう向き合ってどう自分を見つめるのかということしか出来ないのではないかと思ってしまう。何も歴史的な出来事や今現在起きている世界の出来事だけではなく、国内の政治や、もっと卑近な様様な事象に対しても同じ事が言えるのではないだろうかと自問する。

 <シャーウッド・アンダーソン 『ワインズバーグ、オハイオ』(新潮文庫、2018年)>:「マーク・トウェインとヘミングウェイを架橋した名作、アメリカ文学屈指の重要作品を40年ぶりに新訳」と帯に書かれているがどうも倦きてくる地域に生きている人々の生活を淡淡と描くが、それがどうにも退屈である。描かれる人たちに共感もなく、近づきたくもなく、言ってみれば距離感を保って眺めるだけで、そのような人たちの個々の生活事情や暮らしてきた歴史には興味もない。でも、ウィスキーを嘗めながら心の中を空っぽにして文章を追えば柔らかな人間模様に触れて落ち着く時間もあった。

 <西村賢太 『雨滴は続く』(文藝春秋、2022年)>:「”最後の私小説作家”が、生命を賭して紡ぎ続けた畢生の大作1000枚」とあり、本作は『文學界』に2016年12月号から2022年4月号まで、不定期に連作され、最終回執筆途中にタクシー内で急逝した未完の遺作。ワンパターンの破滅的な身勝手な作者の独白と行動、それはひとえに藤澤淸造への祈りであり依存であり崇拝である。

 <森永卓郎 『ザイム真理教』(三五館シンシャ、2023年)>:財務省への批判。それは恰もザイム真理教と化したオカルト宗教のように、末端の人間から取れるものは取り、教団の中枢にいる幹部たちは贅を尽し、そこそこの知識人たちはザイム真理教のお題目を無批判に流布する、という日本経済に警鐘を鳴らす分かりやすい現在の日本経済テキスト。

 <辻堂魁 『雇足軽八州御用』(詳伝社、2023年)>:越後宇潟藩の竹本長吉(おさきち)は連座で故郷を放され、妻子を越後に残して江戸に来て関八州取締出役の雇足軽として八州を巡る。その先々での出来事に向かい合いながら人と接し、勤めを終えた1年後には越後に帰ることができた。江戸期の歴史用語がルビを振られて沢山出てきて辞書で確認しながら読むのが楽しめる。情景描写が多く、登場人物の内面描写が少しばかり欠けていると感じる。また、読点が多くて煩わしく、読むリズムが狂う。さらに形容詞の被せ方に違和感を覚えることも多かった。

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