2017年7月17日月曜日

読書メモ

 <黒川みどり・藤野豊 『差別の日本近現代史 包摂と排除のはざまで』(岩波現代全書、2015年)>:差別に関して雑多の本を読んできたが、「差別という観点からその時代、その社会をとらえなおそうとしてみるという」本書で一旦しめ括っておこうと思い、手に取った。
 差別がこの世から消え去ることはない。それは、人間は自らの立つ位置を相対性のなかでしか確認できないからであり、差別することは本質的な心情であると思っているからである。人種・貧富・居住地・容貌・学力・地域・疾病・障害・性差・職業・・・と差別する側の視点はいつでもどこにでも設定される。そしてまた、差別される側にも差別する視点はある。それは被差別A集団が被差別B集団に対して同じ「差別」と捉えることに異を唱え、中央から差別される地域の中でも本島側が離島側を差別するなどに見られる。一つの集落でも上・下、高い・低いで差別される。
 差別はいけないことです、差別をなくしましょう、などという抽象的スローガンを打ち出すのではなく、誰しもが差別してしまうことを教え、そして差別された際の対応の術などを明示することが必要なのではないかと思う。差別をいじめと置き換えてもいい。あってはいけないと心情的に思っていることが実際に起きてしまうと、それを認めたくないものだからないものと覆い隠そうとしてしまう。あるということを前提にすれば差別の実態に目を向け、制度的対応やアジ-ルのあり方などにもより近づくのではないかと思う。
 「内と外の論理=思考形式というものが、日本人の相手同士にある。閥とか閉鎖的集団とか、内の人間と外の人間」を「断ち切らねば連帯の生まれようがない」、この丸山真男の指摘がストンと腑に落ちる。そして自分なりに考えれば、自分自身が依存先(内なる共同対)を求めるのではなく、「個」としての自立を求め、自律を意識する。誰しもが持っている差別への抵抗は「個」として自立するなかで自律を求めるしかないのではと思っている。ネットでの安易な「イイネ」も短絡的「同調」「攻撃」も、心に「内なる共同対」(依存するムラ)を求めているだけではないかと思っている。

 <原泰久 『キングダム46』(集英社、2017年)>:王翦・楊端和・羌瘣、それに飛信隊が斜陽の趙を守る李牧への攻撃準備に入る。

 <井上勝生 『シリーズ日本近現代史① 幕末・維新』(岩波新書、2006年)>
 <井上勝生 『日本の歴史18 開国と幕末変革』(講談社学術文庫、2009年初刊2002年)>:少しはテーマを絞り込んで積んである本を読んでいこう。集中連続してそのテーマに関する本を読むのではなく、横道に入って小説や漫画を手にしても、戻るべきメイン通りには名前をつけておくことである。つい最近では「差別」に関する本を読んでいた。次は「幕末・明治維新」におこうと思った。それらの本を10冊ばかり引っ張り出して積んで書名を眺めていたら、まずはその時期の歴史全般をよく知っていないと感じた。なんとか事件とか事変とかの名称は知っているが、それがその時代の連続性あるイメージとして鮮やかに浮かんでこない。復習の意味も込めて一旦は通史としての「幕末・維新」史に目を通しておこう思った。2冊とも大学通教をやっていたときにテキストとしていたもので、両者ともあちらこちらに線を入れてある。しかし、その線を引いた箇所・ページを見ても自分の記憶力と知識が呆れるほどに浅いものであることを痛感する。しかも2冊の著者が同一であったことも覚えていなかった。
 世にいわれるほど明治を有り難がってはいないし、ある意味明治維新から明治20年代でこの日本がミスリードされたとも思っている。明治維新という画期がなく、徳川がまだ続いていたらどうなっていただろうか徳川政権で近代化がなされたらどうなっていただろうか、なんてつい思ってしまう。

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