2017年11月29日水曜日

39年ぶりの奥能登

 39年前に富山市にある会社を退社することにし、その際に秋田市に住む父親からもう訪れることもないだろうから一度行ってみたいと要望され、二人で奥能登にドライブしたのが1979年の秋。家人との出会いも、彼女が能登に向かう中で知り合ったし、富山市に住んでいたときは何度か能登に行っている。そんななか、懐かしさもあって10月8日から2泊3日で奥能登に小旅行をした。
 富山駅で新幹線を下車、北口に降りて停車しているバスまで歩く。バスは車体に錦鯉の絵が鮮やかに彩られた小千谷からのバス。小千谷に錦鯉といえば短絡的に田中角栄を思い出すのはもうパブロフの犬のようなものである。
 富山駅北口は昨年5月以来で、ここから西にむかう車窓から眺める景色もまだ記憶が新しい。呉羽山を左に眺め、20代の頃に何度か車で通ったことを思い出す。家人はあまり覚えていないという。昨年昼食を摂った新湊大橋やきっときと市場を右に見て、最初にバスから降りたのは高岡市の桜寿司。ここで昼食を摂り、七尾に向かい、16世紀初期に築かれた七尾城の址を歩く。山城の高低差のある地を歩き、七尾市街と七尾湾を下に眺め、交通不便な山城にて藩主に伏し馬に乗る武士たちや、険しい山道を何度も往復して築城に担ぎ出された人たちのその姿にに少しだけ思いを馳せる。
 次に向かったのは七尾駅でそこから「のと鉄道のと里山里海号」に乗車。観光列車であって、里山里海号の名はノスタルジックな実り豊かなゆったりとした気分を醸し出してくれるはずなのだが、変哲のない景色も相俟って、ビジネスとして企図された下心が窺えて素直にその気分には浸れない。途中で能登中島駅に停車し、国内に2両しかない鉄道郵便車なる遺物を見て初日の宿泊地である羽咋に入った。宿泊は能登ロイヤルホテル。旅行でいろいろなホテルや旅館に泊まるが、大和系のロイヤルホテルは設備や食事などが最もバランスのとれたホテルであって、ここに宿泊する予定を確認できると安心する。中には全国的に名のあるホテルでも何かしら疑問を抱いてしまうホテル・旅館も少なくない。

 翌日はまずは輪島塗の漆器工房、かける手間も緻密であって美しい、しかし高価。輪島朝市は短い通りに小さく店が並び、通りに入る前は活気あふれる情景を想像したが、短い距離であり、人々に弾むような活き活きとした表情はあまり感じられず、かなり落胆した。酒のつまみになる海産物を3個いくらの値段をさらに安くして貰って購入。これらは帰宅後の酒のつまみ。
 秘境の言葉を付された白米の千枚田は立派に設備された観光地で、訪れている人たちも多勢。佐賀県で見た小さな鄙びた千枚田の方が好きである。珠洲の製塩所に寄って舌にのせた塩は美味しく家族へのお土産も含めて幾つか買った。旅行先で塩が売られていると必ずといっていいほど購入する。市販のものより美味しいし、腐りもしないし、息子一家や娘一家にあげても喜ばれる。特に娘の長男は小学生の時から味にうるさく、塩が好きなので彼のためだけにあげることもある。帰宅すれば各地で求めた塩のストックにまた1個加わる。
 次もまた秘境の名が付いた能登半島最北端の禄剛崎灯台。どこが「秘境」なのかさっぱり理解できない。残念ながら佐渡は見えなかった。道の駅に寄り、旅行会社初登場で今年初開催の「奥能登国際芸術祭」の珠洲市に入り、その芸術たる一端に触れるが、何が芸術なのかまったく、さっぱり理解できない。廃駅のホームに傘を突き立ててあったり、海岸に紙のようなもので立っている鳥居のようなもの、はては見附島の海岸に並べられた多くの陶器の破片。観光のために企画されたのであろうが、ゴミを増やしているようである。この日最後に訪れた見附島にも「秘境」の冠がのせられてパック旅行の案内は作られているが、旅行会社のプランナーはよほど「秘境」が好きなようである。安易な言葉遣いであり、想像力の貧困さを連想させる。この日も前日と同じホテル。
 最終日3日目は総持寺からスタート。修復工事中でがっかり。そのせいか昔の華やかさがない。寺で修行する僧の数が昔の半分くらいだと案内の女性の声に張りがないのも宜なるかな。移動して能登金剛・巌門の遊覧船に乗る。海は荒く結構揺れ、楽しめた。20代の頃に眺めた記憶と結びつかないのは今の年齢のせいであろう。富山市の勤務先の先輩の奥さんがこの付近で生まれ、金沢大学に入って下宿し、その下宿先の息子が富山大学に通っていて、どういいう経緯かは知らないけれど二人は夫婦になった。その奥さんは小学校の教師をしていて、年上だけど屈託のない可愛い人で、自分を含む友人たちに人気があり、自分が結婚したときには家人に会いにも来てくれていた。最後にあったのは横浜・戸塚で37-8年も前である。懐かしい。
 閑話休題。妙成寺は素晴らしかった。日蓮宗のこの寺には五重塔があり、広い庭園、平野に屹立してその地の一画を占めて厳かな空気を張り詰めているようであった。祈祷があり、若い住職も凜とした姿勢と声であり、今回の旅行で一番よかった。

 千里浜ドライブウェイを走るのは40年以上ぶり。多くの車が並み際に止まり、走っていた。立ち食いした”いかだんご”が美味しかった。もうここを訪れることもないだろう。
 千里浜を去って高速に乗り、帰途についたが新幹線に乗ったは富山ではなく長岡駅。旅行費用の関係なのかもしれないが、石川県から富山県を抜けて長岡までの長距離を走るのは時間の浪費とも思える。ひたすら富山県を抜けるだけのつまらなさを少しでも解消するためであろう、途中で高速を降りて富山市の西町にある、薬売りで有名な池田屋に立ち寄った。この西町は23歳から29歳までの間しょっちゅう歩いたところであり、ただただ懐かしい。高速インターからここに向かう間の車窓から眺める富山市には淡いかすれた記憶しかなく、知っている建物などを見ては隣りにいる家人に話しかけるのだが、彼女は4年間住んだ富山に愛着はなく、あまり興味を示さない。

 再び高速に入り、息子を連れて遊んだ常願寺川を眺め、朝日町のトンネルを抜けて視界が広がってそこは新潟県。富山から新潟に抜けるこの町の風景と、トンネルを出たときの明るい視界の広がりが好きだった。また、朝日町の海岸で友人と3人で夜中の海に入ったことなどが(一人はもう8年程前に亡くなっている)早送りのビデオのようにオーバーラップして見えた。富山から新潟に抜けるとき、親不知海岸の亀のモニュメントがある施設を歩いたのは10年前のことであり、家人もそのときのことを口に出して懐かしんでいた。日が落ちて車窓からはぽつりぽつりと灯りが見える程度であり、新幹線で大宮に到着したのは21時半。
 もう能登に行くことはないだろう。富山市はもう一度ぶらつきたいとも思うが、家人は行きたくないという。彼女には深い雪の道を、具合の悪くなった息子を背中に背負って一人病院に行き、その心細さで涙も出てきたという思い出が離れないらしい。もちろんそれ以外にも、いろいろな思いが錯綜しているだろうが、富山に行きたいかと言うと一人で行っていいよと話しに乗ってこない。
 ・・・送られてきた旅行パンフを見て来春3月の沖縄-八重山諸島に申し込んだ。9年前に行っているのだが再び行きたくなった。

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