2017年12月12日火曜日

本、漫画

 <原泰久 『キングダム47』(集英社、2017年)>:趙/李牧との戦いが佳境に入る。紀元前229年、秦/王翦の大軍が趙を攻める。

 <安丸良夫 『神々の明治維新』(岩波新書、1979年)>:副題に「神仏分離と廃仏毀釈」。
 水戸学や後期国学の影響を受けた人たちによって急進的に推進された神仏分離や廃仏毀釈。その「奇妙な情熱」はどこから来たのであったろうか。結局は個々の人々がそのときに立っていた位置の維持と拡大、それによって得られる地位と利益の獲得ではなかろうか。そこで述べられるイデオロギーや大義・正義は自己正当化の方便の一側面でしかない。その観念が頭から離れない。
 宗教は、もちろん、時の政治に利用される側面を持っている。仏教的な側面で言えば寺檀制や本末制がそうであろうし、明治新政府は天皇擁立正当性の主張、新政府権威確立を求め、欧米を模倣しながらもキリスト教を怖れ、神道国教化を目指した。しかし、それは神道非宗教の主張のもとで国家神道化し、儀礼的に引き継がれて日本人の精神に内面化し、教育勅語が国教化に取って代わったといえるだろう。そして、日本の近代化に並行して各宗教が良民育成を天皇制国家に供した。
 岩倉使節団の欧米諸国訪問でキリスト教迫害の抗議を受け、信教自由が不平等条約改正の条件と突きつけられ、多分に仕方なく信教自由の承認を約束した。また、キリスト教が基層にある欧米文化や政治を目の当たりに見て、日本にては天皇を擁立することが欧米に対抗できるとした。が、信教自由で教派神道が分離独立し、神道非宗教説のもと国家神道が成立した。神道は国教化から神社祭祀に退いたが、実際には宗教機能を有しながら儀礼や祭祀と強弁することは今に繋がる。祭儀へと後退した神道をイデオロギー的な内実から支え、補ったのが教育勅語。「この勅語には世のあらゆる各派の宗旨の一を喜ばしめて他を怒らしむるの語気あるべからず(井上毅)」との原則によって作られた。すなわち、「国家は、各宗派の上に超然とたち、共通に仕えなければならない至高の原理と存在だけを指示し、それに仕える上でいかに有効・有益かは、各宗派の自由競争に任された」。いろいろな宗教が成立し、教義の頂点には国家の方針に寄り添う多くの宗教がある。反面、そうでなければ危険視され、弾圧に苦しんだ宗教があったことは歴史が教えてくれる。
 直接的に宗教を勉強することはしない。歴史のなかでの諸現象の一つとして理解しようと思う。明治初期の次は第二次宗教ブームのあった戦後に軸を移そうかと思うが、そこに行くのにはもう少し時間がかかりそうである。

 <都留泰作 『ムシヌユン 5』(小学館、2017年)>:中国はやっつけられ、日本政府の中枢は混迷し、アメリカは迷走する。与那瀬島の昆虫は巨大化し、上原は求める愛を拒絶され、三つの邪神星が動き出して続刊へと繋がる。

 <北村薫 『創元推理文庫、2017年』(講談社学術文庫、2006年)>:太宰治の小説などを巡り、本を読む楽しみをつなぐ短編集。以前はこの手の本は面白く読んだはずなのであるが、いまは読んでいても気持ちが入らない。太宰治への関心はペラペラに薄いし、この短編集の主人公を通じて著者自身の個人的喜びにも興味がない。

 渡辺京二の新刊『バテレンの世紀』が届いた。雑誌『選択』に連載されていたもので、いつ一冊にまとまって刊行されるのかと待っていた。まずはすぐに購入しただけで、読み始めるのはかなり先のことになりそうだ。
 2007年に平凡社ライブライー版『逝きし世の面影』を読んで入れ込んでしまい、著者の本をずっと読み続け、14冊を読み終えてからは新刊を購入はしているが、背表紙を眺めるだけになってしまい、そのうちそのうちで随分と年月が経ってしまった。未読の本はもう15冊を数えてしまった。幕末・明治維新に一区切りつけたら、読み始めようヵ。

0 件のコメント: