2018年8月31日金曜日

縄文土器を見に行った&本3冊

 28日、東京国立博物館「縄文 1万年の美の鼓動」に行ってきた。気温が比較的低い日を選んだのだがやはり暑い。それに混んでいた。チケットを購入するのに長い列の後ろにつき、少しずつ歩くなかでも汗は止まらず、ハンカチと手拭いの両方とも濡れ、展示している平成舘に入っても入場制限で待たされた。前日は休館日、この週は平日開館の最後の週、夏休み最後の週、等々の理由があるにせよもう少しすいていると思っていたのはミスだった。もっと早い時期、例えば7月の平日にでも行けば良かったか。
 最初に感じたのは予想よりも縄文土器は大きい、次は火炎土器に代表されるような迫力ある造形美、強く惹かれたのは小さな手形・足形付製品。1000~2000年前に誕生した子の手形・足形には何の言葉も発することの出来ない時空を超えた人を感じる。
 ショップのレジ・カウンターには長蛇の列。何も買わずに博物館を出て、上野駅に向かい、久しぶりにがんこ亭の豆乳バウムクーヘンとみはしのあんみつ・みつ豆を買い、帰宅した。

 <平智之 『なぜ少数派に政治が動かされるのか?』(ディスカヴァー携書、2013年)>:副題は「多数決民主主義の幻想」。問題の根深さに対する現象の深耕と原因分析を学術的に述べているのかと、よく確かめもせずに買ってしまうと落胆する、その典型的な本。著者が政治家としていた時にこうしたい、ああしたい、と主張していることを述べているだけ。著者は、1期だけ民主党の衆議院議員であり、その後離党しみんなの党で出馬するも落選を続け、現在は何をやっているのか知らない、関心もない。

 <釘原直樹 『人はなぜ集団になると怠けるのか』(中公新書、2013年)>:副題は「「社会的手抜き」の心理学」。書かれている内容は、自分の経験を思い出してほぼすべて肯ける。再確認することは、人は集団の中で手抜きする。それは場所や時代が変わろうが、人の世の基層にある。どうしようもないとネガティブに捉えるのではなく、人はそのようなものと認識することであろう。「社会的手抜き」はいつでもどこでもどんな場面でも見られる。
投票参加行動の合理的選択モデルに、自分の選挙投票行動をあてはめて分析するのも一興。
 R=P×B-C+D
  R:投票参加により有権者が得る利益の期待
  P:自分の1票が選挙結果に影響する主観的確率(高確率の人は妄想的楽観主義者)
  B:選挙結果の何如による利益の差(もしかしたらという淡い期待観ヵ)
  C:投票参加にかかるコスト(足を運ぶ時間に置き換えてみればよい)
  D:投票することの社会的価値や心理的満足感(殆どの人は後者の満足感ヵ)

 <乙川優三郎 『ある日 失わずにすむもの』(徳間書店、2018年)>:12篇の短編集。共通するのは、世界を襲っている戦争に主人公が召集されるところで物語が結ばれること。
 貧民街上がりのサックス演奏者が弟に残したもの。思いを寄せる男が戦争に駆り出され、大学を中退してストリッパーになる女性。孤独で村の人たちとの交流を拒んでいたワイン農家が徴兵されて村に託したもの。線路際に一家で住む男は娼婦の妹を守る。ホテルで働いて妻と将来の生活を計画する男。アメリカ国民となっている中国からの移住者。房総で漁師をやりジャズを愛する男。きっと儲かると事業を始めている男と恋人。転々と会社を渡る歩きやっと安住の地を得た男と居ついた猫。等々、陽のあたる場所とは言えない社会でつましく生きてきた人々が戦争に駆り出されて失うものと、失わないもの。
 静かに時が流れ、生活が過ぎて、現実を受け容れ、身の丈に合った先に思いを馳せる。著者の小説は静謐でいつも落ち着かせてくれる。

2018年8月24日金曜日

キッチン・クローゼットの修理

 キッチン・クローゼットのパネルを閉めるとき、最後の閉め終わりでガリガリと異常音がする。3年前に修理した箇所の不具合再発で、歯車が摩耗してしまったのか悪い予感がした。歯先の摩滅ならば代替品を容易に入手するのは面倒。だが、原因は前回と同じく、オイルダンパーに嵌合装着されたピニオンがダンパー軸上スラスト方向にずれてしまいラックとの噛み合いがうまくいっていないことだった。ピニオンのスラスト方向に2mm近いクリアランスがあり、これは設計ミスあるいはスペーサーの取り付け欠品。プレーンワッシャーと手作りしたプラスチックシートでクリアランスを極力なくした。これでオーケー。全作業時間は1時間もかかっていない。
 サラリーマン時代は機械製品設計の仕事に従事してきたので修繕結果に誇らしい気持ちもちょいとはある。その誇りの向け先は連れ合いしかいなくて張り合いがなく、もうちょっと複雑な機構の修理なら自慢の声もより高らかにしたのであるが、彼女の反応は大したことはなかった。とは言っても、娘やその子どもたちはおもちゃや身近に使っているものに不具合が生じると(娘婿にではなく)自分に直してと持ってくる。先日も息子の子どもが壊したおもちゃをすぐに応急処置で直したら息子の嫁さんがいたく感心していた。声にも表情にも出さず、心の中ではどうだ凄いだろと呟く。

2018年8月23日木曜日

暇潰しに新書2冊

 <石蔵文信 『なぜ妻は、夫のやることなすこと気にくわないのか』(幻冬舎新書、2014年)>:副題に「エイリアン妻と共生するための15の戦略」、帯には「それは、性格ではなく性ホルモンのせいです」とある。いちいち納得も出来て面白いのであるが、我が妻との合致度合いには触れずに幾つか抜き出す。
 「女性は誰でも、生まれからズーッとわがままである」-女性に限らない。「すべての結婚は「一時の気の迷い」である-ギャンブルのようなもので、時には判断の誤りもあり、且つ忍耐力・記憶力の低下に伴って離婚と再婚を繰り返す者もいる。「結婚生活とは「エイリアンとの共生」である」-過去とエイリアンは変えられない、変えられるのは未来と自分である。「妻の怒り恨みは無期限有効・利子付きのポイントカード制」-男は初めてのキスを覚えていて、女は初めての朝帰りを覚えている。「妻を無理やり可愛いと思え」-男の目の前にはいつも難題が山積し、人生は常に修行中。「料理ができれば、妻の支配下に置かれずに済む」-何はともあれ食うことが最優先。「孤独に耐えられる趣味を持つ」-趣味を持たない人に趣味を持てといっても殆どは何をして良いのか分からないので、このアドバイスは意味がなく、趣味は不断(普段)の生活の中で継続的自然発生的に生じ、趣味を持つことを目的化しても成果に結びつく確率は低いであろう。

 <仲正昌樹 『「みんな」のバカ! 無責任になる構造』(光文社新書、2004年)>:本書の編集目的は「私たちを子供の時から縛っている”みんな”という制度について分析する」もので、その”みんな”とは、「匿名になり切って「甘えの構造=無(限)責任の体系」の中にしっかり組み込まれている”みんな”」であり、簡単に言えば「赤信号みんなで渡れば怖くない」の”みんな”であり、みんなやってるからと個人を囲い込む”みんな”であり、みんなやっているのになんで私だけ責めるのかと見逃しを請う”みんな”であり、みんなやっているからと安心感を得る”みんな”、みんなで頑張ろうの”みんな”、みんな言っているよの”みんな”、等々の”みんな”である。「観客の多くの方々が拍手をしている」が、「観客の”みんな”が拍手をしている」と言い換えられ、一体感や同調を強いる時にも日常的に軽く使われる。ニュースなどでも”みんな”がよく使われていて、この漠とした言葉はallなのか、majorityなのかmanyなのかと突っ込みを入れたくなるときがある。
 結局、自我を中心に置くのではなく、自己を含む世間に寄りかかり、一体感を想像することで安心感を得ようとする心理が働くからであろう。共同的ナルシシズムと言っても良さそうである。無責任な甘えの構造は、「前近代的な「みんなの共同体=世間」感覚で成立していたお話をいったんご破算にして、個人に「責任」を分配しない限り、近代的「主体」が活躍することのできる「法化」された環境など整えることなどできないのだが」(155頁)、それは無理なことである。
 自律することのない人たちが群れを作って忖度し、総裁選という一見高度な選挙においては「正直・公正」などという低レベルのスローガンを立てざるを得ない状況にあり、グループの”みんな”はどっちにつくのかという集団行動とその報道は、単に相互舐め合いのムラ構造の上辺をなぞっているにしか過ぎない。

2018年8月21日火曜日

新書にマンガ

 甲子園で金足農業が大活躍。準々決勝と準決勝は最初から最後までテレビ観戦した。野球の試合をフルに見るのは随分と久しぶりで、それは秋田市金足は私の生地に近いので愛着があるからにすぎない。今の本籍は現住所の春日部市に移してあるが、結婚するまでは秋田市寺内将軍野にあって、幼児の頃、すぐ近くにあった陸上自衛隊駐屯地の人に遊んでもらい、小さな牽引砲らしきものに触ったような記憶が微かに残っている。金足はその生地の近くの北側に位置している。
 残念ながら金足農業は大阪桐蔭に大敗し、秋田県からの103年ぶり2回目の決勝での勝利、初めての東北からの優勝はならなかった。でも、公立校の地元出身だけからなるチームの活躍はとても好ましく爽やかさを感じる。

 <応地利明 『絵地図の世界像』(岩波新書、1996年)>:前近世、状況によって伸縮する日本国家の四方之境(四至)の内側は<浄なる空間>で、外方の異域は<穢なる空間>であった。その異域は二つに分かれる。一つは「異形の人間」の世界で北は蝦夷島、南は琉球であった。異形とは人間ではあるが鬼にもみなされうる存在で、分かりやすく言えば日本国の天皇の支配下に属せば人間で、外れれば鬼となる。この一つ目の異域から彼方に横たわる二つ目の異域があって、そこは羅刹国・鴈道であり、「人形の異類」である。「人形の異類」とは人間の形をした異類である。
 仏教思想によって日本国の思想は世界へ開かれるようになり、須弥山が中核をなす仏教的世界観において、日本は世界の縁辺に位置する「粟散辺土」ないし「末法の辺土」であった。やがて神国思想の登場によって「粟散辺土」「末法の辺土」たる観念は克服された。神国思想によって「国土ー異域」観と仏教的三国観は融合された。
 マテオ・リッチの地図に代表される地図の輸入によって日本の世界観は拡がりをもち、近世末期の日本の世界地図は次の3形態が並存する。ひとつは、南贍部洲万国掌菓之図を代表例とする仏教系世界図、一つは坤輿万国全図に連なるマテオ・リッチ系の卵形世界図。もう一つは蘭学者が好んだ、球体としての地球を強く意識させる半球図である。
 仏教的世界観では世界は本朝・震旦・天竺の三国であったが、1785(天明5)年の林子平『三国通覧図説』では朝鮮・琉球・蝦夷が三国として地図化されている。

 <ちばあきお+コージィ城倉 『プレイボール2 4』(集英社ジャンプコミックス、2018年)>:続編4冊目。ほぼ40年間の空白を経て連続する物語を見るのは不思議な感じもするし、人生の短さをも思う。

 <鴨下信一 『誰も「戦後」を覚えていない [昭和20年代後半篇]』(文春文庫、2006年)><同 『誰も「戦後」を覚えていない [昭和30年代篇](文春文庫、2008年)>:「戦後の生活史を振り返ってみるためのエピソード集。著者の感想はふんだんに散りばめられているけれど思索は浅い」-これは敗戦直後5年間を記したシリーズ1冊目を読んだときの感想。暫く放っておいた続編についても全く同じで、歌謡曲・映画、小説などの流行りを軽く記している。<天皇制下の民主主義>を<民主主義下の天皇制>、あるいは<軍隊>を<警察予備隊・自衛隊>とする「巧妙な読み替え」と指摘するも、指摘するだけでそこを掘り下げはしない。GHQがGo Home Quicklyとした背景は記すが当時の問題点と現在への連続性には触れない。それだけの、悪く言えば上辺をなぞっているだけである。

 <加藤秀俊 『人生にとって組織とはなにか(11版)』(中公新書11版、1999年)>:得るものは何もなし。

2018年8月18日土曜日

芥川賞受賞作

 <高橋弘希 『送り火』(『文藝春秋』、2018年9月号)>:芥川賞・直木賞受賞作に興味を抱いたときは、全文が掲載されていれば『文藝春秋』や『オール讀物』で読む。単行本よりも安価なこと、それにも増して選評を読む楽しみがあるからで、今回の芥川賞受賞の著者は常人にはない風貌を漂わしていて、また文章が卓越しているらしいので、いつもの芥川賞よりは読んでみようとの関心が強く、久しぶりに『文藝春秋』を買ってきた。

 選評に書かれている文を引用して簡単に感想を書いてみる。「抜きん出た文章力」(1)で「描写力には文句のつけようがなく」(2)。それは「執着のなさが、絶対的な観察者としての目となり、このような狂気じみた描写を可能にしているのではないだろうか」(2)。そして多少の「読みにくさには敬意を払わねばならない。それは予定調和の通用しない世界を描こうとしているからであり、段落ごとに油断ならない状況を冷静に見極める必要があるからだ」(3)。だが、「的確な文章力は、鋭利な彫刻刀として美事に機能している」(4)といえども「その彫刻刀が彫りだしたものに、私はいかなる感動も感興も覚えず、むしろ優れた彫刻の力を認めるゆえ、こんな人間の醜悪な姿をなぜ、と不愉快になった」(4)。「理不尽さだけをまとった」(5)暴力の「最後の場面は残酷で」(1)、「この少年の肉体的心理的な血祭りが、作者によってどんな位置づけと意味を持っているのだろう。それが見いだせな」(4)かった。選者の一人が、「歩の受難と陰惨な場面の先になにがあるのか。それを問うことは、この作品においてあまり意味がない。異界のなかで索敵を終えた歩の、血みどろになって遠のいていく意識のなかで、シャンシン、シャンシンというチャッパの音を聴き取ることができれば、それでいいのだ」(6)とする意見には違和感を覚え、小説ー特に純文学とされる小説ーの役割は何だろう考えさせられた。著者は何を描こうとしたのか判らない。
 「つかず離れずの適度な距離を保つ姿勢が、弱者にとって最も隠微な暴力になっていたことが明かされる末尾の、フラナリー・オコナーふうの展開はすさまじ」(6)(7)く、このテーマと最後のチャッパの音をもっと結びつけて描写すれば、自分にとっては尚更に鋭い小説であると思った。
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 (1)宮本輝
 (2)吉田修一
 (3)島田雅彦
 (4)高樹のぶ子
 (5)小川洋子
 (6)堀江敏幸
 (7)「フラナリー・オコナーふう」という意味は分からない。大学教授にありがちな、
   他の作家などの名を引っ張ってきて説明するのは不快。例えば、ここに共通語では
   ない「時計仕掛けのオレンジ」ふうといってもそれが何なのか解らない読者には全
   く意味をなさない。

新書2冊

 <河合雅司 『未来の年表』(講談社現代新書、2017年)>:副題に「人口減少 日本でこれから起きること」。自分の生年1949年の出生数は269万6638人で、2016年は97万6979人と1/2.76=36%。同年の日本総人口は約8177万3000人、2015年総人口は約1億2709万5000人。2065年には1949年にほぼ同じ約8808万人に減少すると推計されている。1950年の65歳以上人口比率は約4.9%で、2004年には約19.5%だったが、10年経過の2014年には約26%となり、2016年には27.3%が所謂65歳以上の高齢者となっている。2020年には女性の過半数が50代になり、2023年には団塊ジュニア世代が50代となる。2024年には団塊世代すべてが75歳以上となる。女性が男性より多いから日本は「おばあちゃん大国」となり、収入の多い男性は女性より先に逝くので雑破に言えば日本は貧しいおばあちゃんの国になる。自分や連れ合いが何歳まで生きるのか分からないが、生まれたときにはベビーブームで今は高齢化社会の中枢を担っている。息子や娘、その子どもたちが年齢を重ねるに連れこの日本はどうなってしまうんだろうと思ってしまう。想像がつかない。周りを見れば年寄だらけとなるのは間違いない。
 65歳以上ではなく75歳以上を高齢者とすれば数字上の高齢者比率は抑制できる。労働人口も低くなるので自分のように60歳でリタイアして毎日を日曜日と化するのではなく、70歳までは働くようになるのかもしれない。年金だって75歳からの受給って話も出ている。何かもう一生働いてあとはなるべく早めにあの世へ、ということも現実化するような気がしないでもない。
 本書に書かれているように、利便性追求を止め(サービスの縮小)、拡大発展ではなく戦略的に縮むように転換し、行政区分を見直すことも必要かと思う。『「縮み」志向の日本人』と揶揄(?)される日本は意外と縮むのは得意かも知れない。忖度の好きなメダカ社会であるからして、ムラの親分が縮めようとすれば、もしかしたら日本は高齢化社会化へ適応する国のモデルになれるかもしれない。暗ーい気持ちになるのはしようがないヵ。

 <橘玲 『言ってはいけない 残酷すぎる真実』(新潮新書、2016年)>:酒でも飲んでいるときに知識をひけらかしてちょいと得意になるネタを仕入れるにはいい本である。例えば美人(イケメン)と不美人(醜男)の経済格差、ゴリラ・ボノボとヒトとの生殖器サイズの差異とその理由、ヒトの男性生殖器の特徴、遺伝と環境(共有環境と非共有環境)と人格形成への影響、等々。
 必要なことは、差別ではなく差異として人の多様性を受容し(場合によっては自分の周りからは斥け)、いまの現実をそのままに認めることであろう。現代社会は知能の高い層にとって有利な仕組みになっているのはそうであるし、「知識社会」とは知能の高い者が低い者を搾取する社会であることも誰も否定はできない。格差をいたずらに縮めようとはせずに、均等なチャンスを準備し、人びとの権利を平等に受け止め、さまざまな価値配分をどう効果的に行うのか、それらを考えることであろう。著者の主張に肯ける。
 少なくとも、「生産性」という切り口で人びとの多様性を云々する愚劣さは失くしたいものだ。「名誉男性」グループに属する女性は自律できなくなるのは当然と言えば当然のことでしかない。(名誉男性とは「男性支配社会に迎合して女性差別をする女性」-勝部元気の記事より。)
書名がいただけない。ここでしか言えないけど、実はこうこうこうなのよ、というような俗っぽいレベルに落とし込んでいる。

2018年8月10日金曜日

小説とマンガ

 <武田一義 『ペリリュー 5』(白泉社、2018年)>:昭和20年1月。米軍の食料を奪取して反撃へ繋がると奮起する滑稽さ。「戦争を憎む」とか「軍中枢の暴走」とかそれらは正しいであろうが、真実を突いてはいない。
 73回目の原爆慰霊祭が例年のように催されている。セレモニーをやってまた来年のセレモニーに続く。この地球上での争いを回避する歴史が進歩を遂げているとはどうしても思えない。歴史は長いスパンであるが、個々の人間の人生はその中のごく限られたピリオドでしかない。今日もまたどこかで殺し殺され、飢え、保身とはき違えの権力闘争と獲得に明け暮れ、冷笑を浴びせかけている人たちがいる。これはこれで完成形の現実でもあろう。

 <早瀬耕 『未必のマクベス』(ハヤカワ文庫、2017年、初刊2014年)>:都立高校の同級生、中井・伴・鍋島冬香。中井の元上司で恋人由記子、Jプロトコルの出世頭高木、娼婦で占いを授けた蓮花、暗殺者で護衛者ともなった魅力的な陳霊、某国独裁者の兄でマレーシアにて暗殺されたかの人がモデルの李、そして秘書の森川佐和。Jプロトコル・Jプロトコル香港・HKプロトコル。香港と澳門。時にはバンコク・ホーチミン・クアラルンプール・台湾・渋谷・横浜。
 新聞の読書コーナー「売れてる本」に北上次郎さんが紹介していて(文庫本にも解説を書いている)、面白そうなので読んだ。
 主人公である中井や伴は殺人を実行し、魅惑的な陳はビジネスとして暗殺をし、謀略の中で人を殺めるJプロトコルの企業人がいて、その背景には暗号化の特許を巡る経済活動があり、その特許を説明するコンピューターの世界があり、中井と鍋島を繋ぐ積み木カレンダーの数学的なパズル(循環小数がヒント)、中井と由記子の恋、中井と鍋島(森川)の純恋愛。渋谷のラジオ・デイズで由記子と鍋島が互いを知らずに会い、ベイ・シューの歌声が流れる中、キューバリブレ/フェイク・リバティがカウンターの上にある-このラスト・シーンが秀逸。ハードボイルドのシーンにマッチする。
 キューバリブレ、フィル・コリンズ、香港料理にポルトガル料理、スマートな会話と贅肉を剥ぎ取ったシーン、夜景、・・・楽しめた一冊。初刊の時何故にこの本は売れなかったのか、多分会話に隠れる情景や心理、シェークスピア『マクベス』の知的レベルの高さ、それに広範囲な知識(というか言葉を受け容れる素養)、長編小説、などが見えない壁を作っていたのかもしれない。掴めない綿飴のように、今ひとつ中井の人物像がすっきりと溶け込んでこない-溶け込んできたらこの小説は成り立たないであろうが。

2018年8月6日月曜日

文化史のお勉強

 <アルテール他/藤田真利子他訳 『体位の文化史』(作品社、2006年)>:飯田橋の法政大学キャンパスにスクーリングで通っていた頃、家に帰る途中によく有隣堂 ヨドバシAKIBA店に寄っていた。その頃は店内が今よりは広く且つ多岐にわたる本が棚に並んでいた。作品社の「異端と逸脱の文化史」シリーズも並んでいた。それらの書名を記すのにはちょいと躊躇いを覚えるのであるが、次の様なものである。すなわち、『ヴァギナの文化史』・『ペニスの文化史』・『お尻とその穴の文化史』・『マスターベーションの歴史』・『オルガスムスの歴史』・『ビデの文化史』・『乱交の文化史』などである。シリーズの中で手に取ったのは他の書名よりはなんとなく高尚な文化史の香り漂う(?)本書『体位の文化史』である。
 内容はというと、体位に関する人間の歴史を述べるものであり、いろいろな体位の写真や図がたくさん載っていて他人のいる前でページを捲ることは出来ない。そもそも表紙自体が行為そのもののインド・ムガール帝国の細密画である。まあ、人間のやることは本質的には何も変わらず、変化を重ねるのは快楽へのあくなき追及であり、一方、権力による統制や禁制があれば尚更にそれは濃密化して非日常の領域に入っていく。
 男性の陽物を咥えて快楽を得る行為は人間にしかないが、女性に施す方男波は人類以外にも広くあるらしい。それらも体位の中に入っており、付録には<フランスの聖職者に捧げる愛の四十手>が、日本の<性技四十八手裏表秘考>があり、それらの一つ一つに付けられた名称が滑稽でもあり薀蓄もうかがえて面白い。最後は訳者のあとがきで結ばれている、「最後に、本書を読んで実地研究をしようとする探求熱心な読者の方、筋を違えたりなさいませんようどうぞお気をつけて」と。

 3日、暑い中飯田橋にでかけて17:00より飲む。年齢のせいか暑さへの耐力が減退してきた気がする。酒量も以前よりは減っている。