2015年12月30日水曜日

無題

 今年の読書量は例年に比べてとても少ない。読書の質は読んだ量とは別物であるが、量が少なければ質を問う機会も減ることは確かである。内容の濃い本については読み方を変えようとしているが、それも10月から中座している。時間の使い方に反省しきり。

 <小林よしのり 『卑怯者の島』(小学館、2015年)>:風邪のせいで倦怠感があり、本の活字を追いかける気力もない。高校ラグビーを楽しむために例年通り『ラグビーマガジン』2月号を買いに行き、ついでにこの漫画を購入。
 反戦でもなく好戦でもないと著者はいう。ペリュリューを舞台に、戦争に巻き込まれた兵士個人を描いている。戦争に参加せざるを得なかった人の悲喜劇でもある。個人を中心に据えた戦争漫画と言えば、大西巨人『神聖喜劇』漫画版がすぐに頭に浮かぶ。『神聖喜劇』は本の重さもさることながら内容の重さもずしりと響いてくるのだが、小林のこの『卑怯者の島』は軽い、浅いと感じてしまう。それは多分に、「英霊」や「靖国で会おう」などの言葉が躊躇することなく使われている著者の国家観なのであろう。戦前に軍神様と崇められてリヤカーに乗って村を回っていたが、戦後は物乞いをしている戦傷者に再会したとき、「俺の日本を見失った」「英霊になれなかった」と号泣するが、その戦争経験者の心境に対し肯くことはできない。
 年老いた主人公がバスジャックにあい、そこで割腹するときに「乗り越えるべき父権がないから、若者の攻撃性は弱者に向かってしまう!」というが、何を言わんとしているのか解らない。なお、軍神様がリヤカーに乗って村を回るのは若松孝二監督『キャタピラー』を容易に連想させる。あの映画は戦争の悲劇と愚かさを描いていて秀作である。


 <笹原宏之 『訓読みのはなし』(角川ソフィア文庫、2014年)>:新書版を改訂したもので先に新書版を持っていたが文庫版を追加購入。日本以外-中国・韓国・ベトナム・台湾など-の訓読みには興味がないのでそこは飛ばし読みした。「訓読みを体系的に行うのは日本だけ」で、「6世紀半ば頃には、日本列島で確実に訓読みが用いられた」らしい。長い歴史があるからこそ、現在でも使用している訓読みがどのように変化してきたのかを知ると謎ときのようでもあり、面白い。例えばヒグマがなぜ羆と書くのか、病の風邪の例に見られる置き字、観光地の日光の語源は「補陀洛」にあるなど、読んでいて楽しめる。
 興味が引かれた1箇所をメモしておく。「悟りとは諦めることなり」と物知り顔に論じる人がいるが(自分も一時そう思っていた)、本来の中国での「諦」は「つまびらかにする」=「あきらかにする」の意味であった。「諦観」も「よく見る」という意味で、それを日本では「あきらめる」と言った。その後に「あきらめる」に「断念する」の意味が生まれ、明治期に同訓の「諦」が用いられるようになった。「断念」は和製漢語で、「断」を「理(ことわり」と同源の「ことわる」とした。これらを知ると、「悟りとは諦めることなり」とさも世の中を達観しているように口に出すのは憚れる。結局は物事を「つまびらかに」(審らかに/委らかに/詳らかに)見てその本質を認識することであって、決して、この現世にうんざりしてアキラメルことではない。
 漢字は奥深く面白い。