2015年9月30日水曜日

シラスとウシハク、日露戦争以後の軍部の展開

 <大津透ほか編 『岩波講座日本歴史 第16巻 近現代2』(岩波書店、2014年)>:読んだのは「明治憲法体制の成立」(坂本一登)、「伝統文化の創造と近代天皇制」(高木博志)、「軍部の成立」(山田朗)。

 井上毅が「発見」した「シラス」は通教の「日本法制史」で知っており、それと一線を画す概念も知ってはいたが、それが「ウシハク」なる語で表されることは知らなかった。
 ウシハク:【領く】名詞ウシ(大人、主の意)と動詞ハク(佩く)から成る。主人として(土地などを)持っているの上代語。シロシメス(知ろし召す)が天皇に関していうのに対し、ウシハクの主体は神。(角川学芸出版、『古典基礎語辞典』5版)
 シラス:【領らす】お治めになる、御統治なさるの意で、用例は上代にのみにある。中古以降はシロシメスでお治めになるの意である。シル【領る】は場所や土地などを自分のものとして所有するときに、占有する・領有するの意で用い、支配する・統一するの意も表す。人を対象にすると、自分のものにし、責任をもって扱うことから、世話をする・面倒を見るの意にまで発展する。上代から例があり、以後、中世の作品にも例があるが、その数は必ずしも多くない。(同、『古典基礎語辞典』)
 【領らす】(「しる」に上代の尊敬の助動詞「す」が付いたもの)国を統治される。(『大辞林』第2版)
 これらの辞典だけからは、井上「シラス」論の内容を知ることはできない。その「シラス」論とは、「日本の皇室は国土人民を私有して来なかった - 皇祖の支配は元来私心のない公的性格で、その伝統的統治形式は近代の私的所有権と分離された公的所有権とかわらない」(川口由彦『日本近代法制史』新世社、1998年)とするものである。

 天皇陵・皇后陵・皇族墓の治定作業は江戸時代末期の尊皇思想の勃興で盛んになり、「大日本帝国帝国憲法発令の時期までに長慶天皇を除く、すべての天皇陵と多数の皇后陵・皇族墓が決定済みとなり」、「陸墓参考地」は1931年までに40箇所が決定し、現在までそのまま続く。1891年に皇統譜が裁可され、現在はその皇統譜による天皇系図が一般的になっているが、河内祥輔は「正統(しょうとう)」によって現在の天皇(今上天皇)を基準として天皇系図を示している(例えば『天皇の歴史04 天皇と中世の武家』講談社、2011年)。因みに河内の「正統(しょうとう)」はとても興味深く、読んでいて面白い。
 明治維新を通じての陸墓の整備によって「万世一系」が創り出され、明治憲法発布に伴う「大赦」によって旧「賊軍」は天皇の下、薩長藩閥と平等となった。即ち、会津若松の飯盛山では白虎隊の墓が整備され、西南戦争で敗れ賊軍の将となった西郷隆盛の生家には碑が建った。

 自分の関心が高いのは、日露戦争以後の軍部の展開。ここでの<軍部>という概念は、「軍隊がその官僚組織を背景に政治勢力として国政レベルの発言力を行使し得る存在になった場合に用いられる」こと。
 「軍部」の成立を4分類して論じている。
 (Ⅰ)①統帥権独立=内閣(政府)からの独立、②軍部大臣現役武官制、③帷幄(いあく)上奏権(統帥機関の長が、軍機軍令に関して行う上奏のことで、統帥大権より生ずる軍機軍令に関する軍事命令は立法・行政機関の関与を許していない)。即ち、これらから軍部の「独立と政治介入を保障するシステムの成立」が図られた。
 (Ⅱ)日露戦争後から策定された帝国国防方針は、天皇と軍部首脳以外では内閣総理大臣のみに閲覧が許される最高機密として扱われ、政府の関与はなく、「政府から相対的に自立した戦略の保持」が成されるようになった。政府の外交戦略と軍事戦略には齟齬が生じるようになり、また、軍事力構築の目標は国家財政の状況とは関係なしに設定されることとなった。
 (Ⅲ)陸海軍は自らの組織内で軍事官僚を養成し、外部機関に頼ることのない「軍事官僚制と人材養成システムの成立」が図られ、軍部大臣現役武官制とともに、他の省庁とは異なる組織構築を可能とした。これは陸軍幼年学校や陸軍大学校、海軍大学校などを軸とする軍内部の軍人官僚養成であり、帝国大学出身者などを軍から排したシステムを意味する。
 (Ⅳ)「軍隊の支持基盤の形成」は次のように築かれた。①徴兵制に基づいて各歩兵連隊が郷土部隊として編成され、郷土の部隊としての性格が強化され、さらに、②在郷軍人会が組織化された。在郷軍人会の本部は陸軍省内に設置され(後に海軍も加わる)、陸軍省官制が業務を規定し、支部-分会へと末端まで展開された。③靖国神社と地方の招魂社という戦没者慰霊機関が存在し、多くの戦死者を出した日露戦争期から「英霊」なる言葉が使われ始め、日露戦争を契機として「英霊」が靖国神社に合祀され、靖国神社は「英霊」とともに人々と密接な繋がりをもつようになった。

 (Ⅰ)の3要素、(Ⅱ)の帝国国防方針、(Ⅲ)の軍事官僚養成システムは敗戦にともなって消えたが、(Ⅳ)の③の「靖国神社」や「英霊」などは現在も多様な課題を有している。それらを含んで、日本という近現代のシステムは1945年という画期をもって語られることが多い。自分も1945年を中心におき、そこから明治も大正も、戦後も戦前も、(あるいは近世も中世も古代も、)見てみたいと思っている。